Q.朝鮮時代に廃位された王妃は何人いますか?

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A. 朝鮮王朝初期から中殿(チュンヂョン/王妃)の廃位が始まりました。女性の立場から見れば残念なことでしょう。

朝鮮王朝で一番最初に廃位された中殿は、太祖・李成桂(イ・ソンゲ)の第2正妻の「神德王后(シンドクワンフ)」康(カン)氏です。権門世族だった康氏門中(家門)は勢力伸張に役立つ人物として李成桂に目をつけて、康允成(カン・ユンソン)の娘と政略結婚させました。

李成桂との間に芳蕃(パンボン)と芳碩(パンソク)の2人の王子と慶巡公主(キョンスンコンヂュ)を生み、李成桂が王として即位して顯妃(ヒョンビ)として冊封されました。家柄が良いうえに李成桂の愛までたっぷり受け、息子の芳碩を王世子(ワンセヂャ/世継ぎ)にしたのです。残念なことに、王位を狙う(五男の)イ・バンウォンはあまりにも強大な人物でした。

王子の乱を起こしたイ・バンウォンは康氏の生んだ2人の息子の芳蕃と芳碩、芳碩の婿、反対派の鄭道傳(チョン・ドヂョン)、そして残りの者を殺害しました。康氏は翌年に火病(ファビョン)で亡くなりました。李成桂は康氏の死亡で失意におちいって、陵の横に小さな庵を建て、朝夕に行次(ヘンチャ)を捧げました。しかしパンウォンは朝鮮第3代王「太宗(テヂョン)」に即位した後、神徳王后を後宮に地位を格下げし、墓も移葬してしまいました。

叔父によって王位を強奪された端宗(タンヂョン)の母の顯德(ヒョンドク)權(クォン)氏も、死後に廃位されました。文宗(ムンヂョン)の第3正妻の顯德王后(ヒョンドクワンフ)は、端宗を生んだ後の3日目に亡くなりました。

世祖が王位に上がった後、顯德王后の母の阿只(アヂ)と弟の自愼(チャシン)が端宗の復位を企てて殺され、父の權專(クォン・ヂョン)も追廃されて庶民に格下げされました。端宗は「宗社に罪を犯した(国家に反逆した)」という理由で魯山君(ノサングン)として降封されると、母親も王妃の名号を維持することはふさわしくないと廃位されました。

母親がこうなってしまって、夫人たちはどうしたのでしょう。端宗の正妃の「定順王后(チョンスンワンフ)」宋(ソン)氏も夫人として階級が低くなりました。

成宗(ソンヂョン)の第2正妻の「齊獻王后(チェホンワンフ)」が、韓国ドラマの定番素材として登場する燕山君(ヨンサングン)の実母の廃妃尹(ユン)氏です。王の女性たちとの愛情争いと、これによる仁粹大妃(インスデビ)との葛藤、王の顔に傷を造ったという理由で廃妃された後、死薬を受けました。以後、燕山君が即位した後に齊獻王妃として追尊されましたが、1602年の「中宗反正」の後に削奪されてふたたび「廃庶人」の身分に戻りました。いわば彼女は2度にわたり中殿から廃位されたわけですね。

燕山君が反正で王位を追われ、夫とは異なり徳のあった妻の愼(シン)氏も廃位を免れませんでした。燕山君が暴悪をふるった当時、涙で諫言しました。王は王妃の言葉を聞き入れませんでしたが、かといって大きく怒らなかったそうです。王を意のままにすることはできませんでしたが、大君と王女や老僕たちは厳しく取り締まり、横柄な行動ができないようにしたと伝えられています。

中宗反正で燕山君が廃位された後に「居昌郡(コチャングン)夫人」に降格された愼氏は、流刑地について行こうと泣き叫びましたが志を得ることができませんでした。以後、燕山君は死を前にして「夫人愼氏に会いたい」という言葉を残しました。2人はそれほど愛情が深かったのでしょう。

燕山君との間に5男2女をもうけたという話もありますが、それよりもっと多い7男2女、あるいは7男3女を出産したという主張も伝えられています。愛情が深くなければ決して起こることのない出産でしょう。しかし残念ながらほとんどすべて早死にし、生き残った2人の息子も燕山君が廃位された後に賜死しました。

廃位はされましたが、愼氏を殺せという人は誰もいませんでした。中宗は彼女に住む家を下賜し、愼氏家門の奴婢たちも彼女のそばを離れませんでした。愼氏は死後、燕山君の墓の隣に並んで埋葬されました。

  • < 対をなした燕山君と廃妃愼氏の墓(資料-文化財庁) >

中宗による最初の正妻「端敬王后(タンギョンワンフ)」愼氏の廃位は政治的な選択でしょう。反正で王になった中宗は、王になった見返りに最愛の妻を見捨てなければなりませんでした。彼を王位に座らせた反正の功臣たちは、反正に加担しなかった父親の愼守勤(シン・スグン)を刺殺した後、逆賊の娘だとして廃位を主張したからです。

光海君(クァンヘグン)の正妃だった「文城郡夫人(ムンソングンプイン)」柳(ユ)氏は、仁祖反正で光海君が廃位されて王妃の称号を失いました。光海君とともに江華島(カンファド)に幽閉された後、廃世子と廃世子嬪はみずら命を絶ち、兄たちが斬刑に処される姿を見守りつつ、苦しみながら48歳のときに病死してしまいました。

朝鮮19代の王「粛宗(スクチョン)」の第2王妃「仁顯王后(イニョンワンフ)」閔(ミン)氏は、韓国の時代劇で最も多く登場する人物の一人です。粛宗の継妃で徳が高く民衆の崇拝を受けましたが、残念ながら王子を産むことができず、王の寵愛を失うことになります。王の寵愛を受けた禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の奸計で廃庶民になり、安国洞の本家に留まるようになります。その後に復位できたものの、原因不明の疾患で35歳の若さで夭折してしまいます。ドラマや映画ではこれを禧嬪張氏が巫女にクッ(儀式)をさせるなど、呪いをかけたためだという設定で見せています。

中殿になった張氏も中殿から禧嬪に降格されたわけで、厳密に言えば肅宗時代だけで2人の女性が王妃から廃位された経験を持っているわけですね。

高宗の王妃の「明成皇后(ミョンンソンファンフ)」閔(ミン)氏は1895年10月8日、宮殿を侵犯した日本浪人たちに殺害された後に退位して庶人に降格されましたが、同年10月に復号されました。

これらすべて合わせると9人になります。整理して見てみましょう。

- 死亡した後に廃位されたが復位した王妃は?神德王后康氏、顯德王后權氏、明成皇后閔氏
- 生存時に廃位されたが死亡した後、復位された王妃は?定順王后宋氏、端敬王后愼氏
- 生存時に廃位されたが、生存時に復位された王妃は?仁顯王后閔氏
- 生存時に廃位されたが死亡した後に復位され、後に再び廃位された王妃は?齊獻王后尹氏
- 生存時に廃位されたが最後まで復位されなかった王妃は?居昌郡夫人愼氏、文城郡夫人柳氏
  • Lim, Chul
  • 入力 2017-06-09 00:00:00

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