Q.DSPメディアについて教えてください②:1990年代から2000年代前半

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A. DSPメディアについて教えてください①:デソン企画とイ・ホヨン代表

1991年に設立されたDSPメディア(設立当初の社名はデソン企画、2008年に現社名に変更)が初めてデビューさせた歌手は5人組の混成ダンスグループZAMです。1992年に発表されたデビューアルバムのタイトル曲『私は止まらない』は10代の間で絶大な人気を享受しました。同じ時期に活動していた「ソテジワアイドゥル」に比べると押されていましたが、音楽番組で1位になったいたのですからトップクラスであったことは確かです。

しかし、ZAMはファーストアルバムの発売後すぐに分裂してしまいました。収入の分配が原因でした。

ZAMが成功をおさめるとDSPメディアはすぐにキム・ジュンヒ(現在俳優として活動)が紅一点で参加した6人組アイドルグループMUEを発表しました。MUEは『新しい感じ』で少し人気を収めましたが、ZAMと同様に長く持ちませんでした。

黄金期は1990年代後半に訪れました。SMエンターテイメントを通じてデビューしたH.O.T.とS.E.Sが大ヒットすると、DSPメディアはライバルのSECHSKIESとFIN.K.Lをデビューさせて対抗しました。SECHSKIESはH.O.Tが登場してから1年後の1997年4月にデビューし、S.E.Sがデビューした翌年の1998年5月にFIN.K.Lが登場しました。

  • SECHSKIES



  • FIN.K.L



DSPメディアの戦略はSMプラス1でした。SECHSKIESのメンバーはH.O.T.よりも1人多い6人で、FIN.K.Lのメンバーは4人とS.E.Sより1人多いです。

だからといってSECHSKIESやFIN.K.Lが急造されたチームではありません。メンバー全員が10代で構成されたIDOL、SECHSKIES、FIN.K.L、Click-B(バンド)は、イ・ホヨン代表が構想した4大プロジェクトでした。H.O.T.が人気を集めたことに刺激を受けてメンバーをさらに集めたという話です。

ウン・ジウォンの証言によるとSECHSKIESはもともと自分とカン・ソンフンの2人組としてデビューする予定だったのですが、急に4人の練習生を補充して6人組になったそうです。S.E.Sの成功的なデビューの後、イ・ヒョリがFIN.K.Lのメンバーに加わりました。

1999年8月にデビューしたボーイズバンドのClick-Bは事情がちょっと違います。神話(SHINHWA)のライバルとして構成されたClick-Bはもともと8人組で編成される予定だったのですが、デビュー直前にメンバーの1人が個人の事情で脱退し、7人組でデビューしました。SECHSKIESがH.O.T.、FIN.K.LがS.E.Sとライバル構図を形成しましたが、Click-Bは神話の対抗馬にはなりませんでした。二つのグループがそもそも性格や志向するものが異なっていたため、ライバル視するには無理があるというのが全体的な評価です。

人気絶頂だったSECHSKIESとFIN.K.Lは1999年12月、ペティー・キム、テ・ジナ、ソル・ウンド、チェ・ジンヒと平壌で「2000年平和親善音楽会」の舞台に立ちました。今日の南北関係を見ると隔世の感といったところでしょう。

第1世代のアイドルの全盛期が終わって2000年に登場したShyne、2Shaiなどのグループは失敗してしまいました。この時期にSMエンターテイメントの新人グループも苦戦していたのは同じです。2000年代初頭、DSPメディアの収穫を挙げるとしたら、ソロに転向してシンドロームを巻き起こしたイ・ヒョリです。

DSPメディアについて教えてください③:2000年代後半から現在
  • O2CNI Lim, Chul
  • 入力 2018-03-21 00:00:00

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