Q.韓国のテレビによく登場するイ・ヨンボクシェフについて教えてください。

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A. 2008年11月、韓国中華料理界でとても興味深い集まりが行われました。

中央日報の計らいで1960年代以降、中華料理を牛耳っていた大物料理長14人が作業服を着て写真を撮ったようです。

  • 一堂に会した中華料理界の大物たち。イ・ヨンボクは右側の端にいます。(資料-中央日報2008.11.27)[1img1]

    当時は、中華料理店の料理長は自分が何をしてる人なのか、あまり周りに言おうとしませんでした。 最近になってから、やっとシェフ(chef)が、羨望の対象になりました。しかし、10余年前まで調理師は、人々が見下すような存在でした。

    中央日報の取材チームは、彼らを含めて前職、現職の調理師40人あまりの意見を取りまとめて京城(キョンソン)4代門派を整理しました。この食堂の厨房から全国で活動する多くの料理長が輩出されたという話です。この中で、今も営業をしている所は新羅ホテルの2階にある八仙(パルソン)、この店一つだけです。

    中華料理界の大物の団体写真を撮った中央日報のクォン・ヒョクジェ記者は、このような感想を書いています。

    「一堂に会すること自体が不可能だと思ったが、紆余曲折の末に集まって写真を撮った。撮影当時、微妙な神経戦があった。誰が前に立って、誰が後ろに立つのか、やっと配置を決めて写真を撮ろうとすると、そっと前に出る人がいて、列が乱れたりした。イ・ヨンボクシェフは最初から自ら一番後ろの場所に立った」

    自分を低めに評価しましたが、大家たちが集まってからすぐにイ・ヨンボクはスターになった。
    彼がオープンした「木蘭(モクラン)」は、毎月1日と16日に予約をしなければ、席を取れない程の盛況ぶりをなしています。

    イ・ヨンボクは、上で紹介した4代門派のうち、豪華大飯(ホファテバン)店出身です。

    イ・ヨンボクは、ソウルの往十里(ワンシムニ)で中国山東省(サンドンソン)出身の親元に生まれました。まだ親の故郷である山東省には足を踏み入れたことはないそうです。彼が生まれた頃は、韓国と中国の外交が途絶え、韓国に居住する華僑には、一律に中華民国の国籍が与えられました。

    小学校6年生、13歳の時に学校を中退して家出して中華料理店を転々としながら働いていました。17歳の時、ソウルの明洞(ミョンドン)にあるサボイ・ホテルの中華料理店「豪華大飯店」に一番年下として入りました。

    厨房派閥の間で起きたけんかに巻き込まれ、22歳で在韓台湾大使館の料理長に選ばれました。当時、最終候補の3人が実技面接を受けましたが、イ・ヨンボクが披露した料理は東坡肉(トンパユク)。 イ・ヨンボクは、今でも東坡肉を運命の料理だと思っています。

    • 東坡肉。茹でた豚肉にタレをかけて煮詰めた後、さっとゆでたチンゲンサイと一緒に食べる料理。



    台湾大使館に勤務していた26歳の時、蓄膿症の手術を受けたあと、後遺症で嗅覚を失ってしまいました。その後、日本にいた友人に勧められて、日本へ行って経歴を隠して厨房で皿洗いをすることから始め、夜の店の料理長として働きながら貯めたお金で弁当屋を創業しました。韓国と日本、中国のお客様の様々な好みに合わせて差別化されたメニューで、かなり人気を集めたそうです。

    10年間、日本の大阪に滞在しながらイ・ヨンボクが得た大切な資産があります。笑顔です。最初は出入りするお客様に無理矢理、挨拶をしてました。しかし、時間が経ってからは、心からお客さんを迎える笑顔に変わったそうです。

    1988年、韓国に戻ってきたイ・ヨンボクは、中華料理店の「木蘭」*をオープンしました。

    * 中国の物語の主人公である花木蘭(ファ・モクラン)から取った名前です。幼い歳で父に代わって軍隊へ行った花木蘭の話が、幼い歳で鉄かばん(中華料理店で使われる出前用のかばん)を持たなければならなかった自分の境遇と似ていると思って付けた名前だそうです。

    現在は、延禧洞(ヨニドン)に位置しています。しかし、オープンした頃は、家賃の引き上げに耐えられず、仕方なく店を移して転々としなければなりませんでした。

    イ・ヨンボクと木蘭が今日の位置を確立したのは、番組出演が役に立ったとは言え、絶対的な影響を与えたわけではありません。

    2011年に『オリーブ・クッキングタイム』とSBS『生活の達人』に出演し、中華料理を披露し、2015年にはJTBC『冷蔵庫をお願い』にイタリアンレストランのシェフ、チェ・ヒョンソクの代わりにゲストとして出演した後、本格的に放送活動を続けています。

    番組に出演した後、店が有名になり客が上昇していますが、一時は、月の売り上げが2000万ウォン以上、落ちましたました。お客さんが増えたのに、売上が減ったんですか?不思議な話ですが、事実だそうです。

    人が住んでいた家を改造してオープンした中華料理店「木蘭」。現在は、釜山の機長(キジャン)に位置するヒルトンホテルにも支店があります。

    木蘭は、元々コース料理を楽しむ常連客でいっぱいになる所でしたが、放送後に中華料理に慣れていないお客さんが来てジャージャー麺と酢豚だけを食べていったため、変わったそうです。

    2015年からは、事情が再び逆転しました。

    予約**がとても大変だったので、木蘭を訪れたお客さんは今しかないと決心して、料理をすべて味見していったため、売り上げが跳ね上がりました。

    **予約したい日の1か月前に、1日または16日の2日間だけ予約を受けます。しかし、基本的に500回以上、電話をかけないと予約できません。200~300回、電話して予約できたならば、幸運なケースです。運が悪ければ、1000回電話しても予約できません。
    受付時間は14~15時、20~21時。 東坡肉、焼き餃子、メンボシャ(海老の揚げサンド)、クァンジャネンチェ(冷菜)、カンプンチャンオ(ウナギの唐揚げ )、カイランワンジャ(カイランと海老団子)、骨付きカルビ揚げ、オヒャンドンゴ(シイタケと海老団子)などは、事前に予約をしないと味わえません。

    中華料理店の木蘭の片隅には野良猫用の茶碗があります。イ・ヨンボクは引退後、捨てられた動物を集めて保護しながら老後を送りたいと思っています。今でも休みの日には妻と一緒に捨て犬保護センターに行ってボランティアをしています。妻もイ・ヨンボクに劣らない料理の実力者と言われているので、2人はとても似ているようです。

[img1]一堂に会した中華料理界の大物たち。イ・ヨンボクは右側の端にいます。(資料-中央日報2008.11.27)[1img1]

当時は、中華料理店の料理長は自分が何をしてる人なのか、あまり周りに言おうとしませんでした。 最近になってから、やっとシェフ(chef)が、羨望の対象になりました。しかし、10余年前まで調理師は、人々が見下すような存在でした。

中央日報の取材チームは、彼らを含めて前職、現職の調理師40人あまりの意見を取りまとめて京城(キョンソン)4代門派を整理しました。この食堂の厨房から全国で活動する多くの料理長が輩出されたという話です。この中で、今も営業をしている所は新羅ホテルの2階にある八仙(パルソン)、この店一つだけです。

中華料理界の大物の団体写真を撮った中央日報のクォン・ヒョクジェ記者は、このような感想を書いています。

「一堂に会すること自体が不可能だと思ったが、紆余曲折の末に集まって写真を撮った。撮影当時、微妙な神経戦があった。誰が前に立って、誰が後ろに立つのか、やっと配置を決めて写真を撮ろうとすると、そっと前に出る人がいて、列が乱れたりした。イ・ヨンボクシェフは最初から自ら一番後ろの場所に立った」

自分を低めに評価しましたが、大家たちが集まってからすぐにイ・ヨンボクはスターになった。
彼がオープンした「木蘭(モクラン)」は、毎月1日と16日に予約をしなければ、席を取れない程の盛況ぶりをなしています。

イ・ヨンボクは、上で紹介した4代門派のうち、豪華大飯(ホファテバン)店出身です。

イ・ヨンボクは、ソウルの往十里(ワンシムニ)で中国山東省(サンドンソン)出身の親元に生まれました。まだ親の故郷である山東省には足を踏み入れたことはないそうです。彼が生まれた頃は、韓国と中国の外交が途絶え、韓国に居住する華僑には、一律に中華民国の国籍が与えられました。

小学校6年生、13歳の時に学校を中退して家出して中華料理店を転々としながら働いていました。17歳の時、ソウルの明洞(ミョンドン)にあるサボイ・ホテルの中華料理店「豪華大飯店」に一番年下として入りました。

厨房派閥の間で起きたけんかに巻き込まれ、22歳で在韓台湾大使館の料理長に選ばれました。当時、最終候補の3人が実技面接を受けましたが、イ・ヨンボクが披露した料理は東坡肉(トンパユク)。 イ・ヨンボクは、今でも東坡肉を運命の料理だと思っています。

  • 東坡肉。茹でた豚肉にタレをかけて煮詰めた後、さっとゆでたチンゲンサイと一緒に食べる料理。



台湾大使館に勤務していた26歳の時、蓄膿症の手術を受けたあと、後遺症で嗅覚を失ってしまいました。その後、日本にいた友人に勧められて、日本へ行って経歴を隠して厨房で皿洗いをすることから始め、夜の店の料理長として働きながら貯めたお金で弁当屋を創業しました。韓国と日本、中国のお客様の様々な好みに合わせて差別化されたメニューで、かなり人気を集めたそうです。

10年間、日本の大阪に滞在しながらイ・ヨンボクが得た大切な資産があります。笑顔です。最初は出入りするお客様に無理矢理、挨拶をしてました。しかし、時間が経ってからは、心からお客さんを迎える笑顔に変わったそうです。

1988年、韓国に戻ってきたイ・ヨンボクは、中華料理店の「木蘭」*をオープンしました。

* 中国の物語の主人公である花木蘭(ファ・モクラン)から取った名前です。幼い歳で父に代わって軍隊へ行った花木蘭の話が、幼い歳で鉄かばん(中華料理店で使われる出前用のかばん)を持たなければならなかった自分の境遇と似ていると思って付けた名前だそうです。

現在は、延禧洞(ヨニドン)に位置しています。しかし、オープンした頃は、家賃の引き上げに耐えられず、仕方なく店を移して転々としなければなりませんでした。

イ・ヨンボクと木蘭が今日の位置を確立したのは、番組出演が役に立ったとは言え、絶対的な影響を与えたわけではありません。

2011年に『オリーブ・クッキングタイム』とSBS『生活の達人』に出演し、中華料理を披露し、2015年にはJTBC『冷蔵庫をお願い』にイタリアンレストランのシェフ、チェ・ヒョンソクの代わりにゲストとして出演した後、本格的に放送活動を続けています。

番組に出演した後、店が有名になり客が上昇していますが、一時は、月の売り上げが2000万ウォン以上、落ちましたました。お客さんが増えたのに、売上が減ったんですか?不思議な話ですが、事実だそうです。

人が住んでいた家を改造してオープンした中華料理店「木蘭」。現在は、釜山の機長(キジャン)に位置するヒルトンホテルにも支店があります。

木蘭は、元々コース料理を楽しむ常連客でいっぱいになる所でしたが、放送後に中華料理に慣れていないお客さんが来てジャージャー麺と酢豚だけを食べていったため、変わったそうです。

2015年からは、事情が再び逆転しました。

予約**がとても大変だったので、木蘭を訪れたお客さんは今しかないと決心して、料理をすべて味見していったため、売り上げが跳ね上がりました。

**予約したい日の1か月前に、1日または16日の2日間だけ予約を受けます。しかし、基本的に500回以上、電話をかけないと予約できません。200~300回、電話して予約できたならば、幸運なケースです。運が悪ければ、1000回電話しても予約できません。
受付時間は14~15時、20~21時。 東坡肉、焼き餃子、メンボシャ(海老の揚げサンド)、クァンジャネンチェ(冷菜)、カンプンチャンオ(ウナギの唐揚げ )、カイランワンジャ(カイランと海老団子)、骨付きカルビ揚げ、オヒャンドンゴ(シイタケと海老団子)などは、事前に予約をしないと味わえません。

中華料理店の木蘭の片隅には野良猫用の茶碗があります。イ・ヨンボクは引退後、捨てられた動物を集めて保護しながら老後を送りたいと思っています。今でも休みの日には妻と一緒に捨て犬保護センターに行ってボランティアをしています。妻もイ・ヨンボクに劣らない料理の実力者と言われているので、2人はとても似ているようです。
  • Lim, Chul
  • 入力 2019-08-21 00:00:00

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