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[全文訳]故チェ・ジンシルの娘ジュニさんが祖母からの虐待を暴露
- 故チェ・ジンシルの娘チェ・ジュニ、14歳の少女に一体何が起きているのか?
チェ・ジュニさんが5日深夜、自身のSNSを通じて母親が亡くなって以降、具体的には小学校4年生以降母方の祖母チョン・オクスク氏から持続的な暴言と暴力を受けてきたという文を掲載し衝撃を与えている。これまで放送などを通じて外部に知られている祖母チョン・オクスク氏はチェ・ジンシルの自殺以降は彼女の子どもであるチェ・ファニ、チェ・ジュニ兄妹を育てることにに最善を尽くし、残った3人はつらい時期を過ごしてきたように見えた。しかし、この日チェ・ジュニさんの載せた文章によればそんな姿が「演出」だったというもの。文章の末尾に書かれた「助けてください」というチェ・ジュニさんの訴えにネットユーザーは深夜から心配を寄せている。
チェ・ジュニさんが書いた文章によると、ジュニさんは小学校4年生のときから祖母チョン・オクスク氏から虐待され鬱になり、極端な考えに自殺を試みて遺書まで書いた。
ジュニさんは祖母チョン氏が兄チェ・ファニ君のためだけに生きてきており、自分を幼い頃から育ててくれた「おばさん(実のおばではない)」が財産を狙っているという理由でこれ以上会うことができないようにしたと記した。また、ジュニさんが米国行きを決意したときに祖母が送った場所はインチキ宗教と関連した学校であり、幸いにも韓国に戻って着たが祖母は自分を泥棒扱いするなど傷つけたとした。ジュニさんは2015年に放送されたMBC『ヒューマンドキュメント愛』にて見せた姿が演出されたものであったため苦しんだとした。
2003年生まれのジュニさんは、そうでなくても思春期の真っ只中にある年齢だ。幼い頃に両親、叔父まで衝撃的な死を経験した心理状態は周囲の心配を呼んだ。
SNSを通じて世界と疎通してきたジュニさんは明るく可愛らしい姿に似合わなず、頻繁に不安な心理状態を見せてきた。母チェ・ジンシルと仲の良かったイ・ヨンジャ、ホン・ジンギョン、イ・ソラなどがこれまでもジュニさんを気遣ってきたが、最近でも母親が広告モデルとなったテレフォンカードを掲載するなど、母親に対する恋しさはどうしようもなかった。
ジュニさんはこれまで時々見せていた不安な状況についてこの日の文章により理由を知らせた。祖母チョン氏がどのような反応を見せるのか、済州国際学校に在学中の兄チェ・ファニとの関係はどうなのか、今後ジュニさんは再びどれだけつらい時間を過ごし耐えねばならないのか、ネットユーザーは心配と憂慮を大きくしている。
以下、チェ・ジュニさんのSNS掲載文全文
こんにちは。みなさんが良くご存知の故チェ・ジンシルの娘チェ・ジュニです。私が突然この文を書くことになった理由は幸せに暮らしているように見えた私の一生について暴露しようと悩んだ末に勇気を出して一文字一文字書いていこうと思います。
現在私は中学校2年であり、きっと私の人生が絡まり始めたのは母が天に召されてからではないかと思います。けれどしいて考えて見れば小学校4年生からだったと思います。
母が亡くなって以降、不幸に生きるだろうと思っていた私は、他の子どもたちと同じように極めて平凡に学校に通いスポンジ・ボブを見たがる小学生でした。
私にとって残った家族といえば母方の祖母、兄、おばさん、父方の家族くらいでした。ここで挙げなければいけないことは祖母とは暮らしておらず、一緒に暮らしているおばさんは誰かについてアスク(匿名質問)を掲載したときにもそうですし、多くの方々が気にしているのでお教えするとすればおばさんは血の繋がりのある家族ではありませんが、私が生まれるや育ててくださり、他の両親に劣らずしっかり育ててくださいました。しかし祖母は事実上幼い頃から今までいつも兄だけを可愛がって育てることに忙しかったです。そんな私に愛を与え、私のために15年という長い時間をただチェ・ジュニのために生きてきた方です。
もう一度本論に戻って話を続ければ、祖母はおばさんを昔からとても嫌っていました。理由は今でも分かりませんが、大人たちの言葉によればおばさんが私の財産を狙って育てているという理由で嫌いだそうです。そうやって11年間一緒に暮らしてきたおばさんを突然強制的に会えないようにしたのが小学校4年のときからです。
そのときはとても幼く、5日過ぎれば来るだろう10日過ぎれば来るだろうと思いましたが結局その日からはおばさんが家に戻ってきませんでした。11歳という年齢で一番愛する家族と別れを経験し、数日後には祖母は衝撃に陥っている私に平気で「お前とあいつ(おばさん)と一緒にいるところを到底見ていられないから私が家から出て行くように言った。お前があいつといればお前の人生は台無しだ」ととても幼い私にもっと大きな衝撃を与えました。それ以降小学校4年生のときにはじめてうつ病にかかり泣かない日はなく、夜ごと祖母に気づかれないように枕に顔をうずめてわーわーと泣きました。そうやってしばらく泣いて眠り、日課といえば泣くことしかありませんでした。とても会いたくて大きなクマの人形におばさんが持っていかなかった服とめがね、香水、靴下を着せてぎゅっと抱いて寝ました。けれど祖母は残忍にもその人形を放り投げておばさんの持ち物を床に投げ出して叫びました。私はとても怖く、おばさんと私は一体何を間違えたのかと思いました。
そして数日後、私は精神的にメンタルが粉々となり、勇気を出しておばさんに連絡してみようと祖母に隠れてカカオトークで連絡をしました。運よくおばさんに連絡が届き、おばさんはただ自分が私を守ることができず申し訳ない、私が早く成人してこそ私たちが会うことができると答え、私はまた涙を流すしかありませんでした。
そしてある日、私は居間で昼寝をしていましたが私の携帯電話が無くなっていました。数分後に祖母は私に不満いっぱいの表情をしながら「お前を暗証番号をつけているからって分からないと思うのかい?おばさんと連絡していることは全部知っている」と話し、自ら私の携帯電話を検査したと少しの疑いの余地があったときには言葉もなく持って行き返してくれませんでした。
数週後、私は当時声楽部であり声楽部の担任が私の事情を知っておばさんに連絡してくださりおばさんが学校にこっそりと訪ねてきたり、ラズベリーなど小さいころから好きだったものを持ってきてくれました。私は食べている間おばさんの前で涙を見せることができず笑顔に代え、でも幸福はここまででした。
数日後、おばさんが学校に訪問したのは祖母がどうやって知ったのか分かりませんが学校の先生から連絡をしジュニとおばさんを会わせないようにし、先生も私の事情をすべて知っていますが仕方なく会わないようにさせました。その時以降、初めて自殺という単語を考え、おばさんにとても会いたいと思いました。
小学校5年となり、うつ病はより酷くなっていきました。祖母の脅しと暴力は日を追うごとに増えて行き、学校で私は自然と友人たちにさらに頼るようになりました。そんな中で好きな男の子ができ、何とか耐えることができました。しかし祖母は私に男に狂ったと傷を与え、ある日には大きく言い争いを起こして私をハンガーで叩こうとしたので必死で止めました。けれど突然私の手を噛み、そのため今でも私の右手の指の間には痕が残っています。
一日一日が生きた心地がせず、本当に地獄のようでした。死ぬほうが楽だと、本当にただ死にたかったです。だから深夜に遺書を書きました。そして自害方法はあるだけすべてやってみました。カッターで手首を切り、シャワーで首を吊ったりもしましたが生きたいという意思が少しあったのかいつも失敗し、そのたびに傷だけが残り結局死ぬことはできませんでした。
数日後に祖母が私の遺書を発見し、私にどうして遺書を書いたのかと声をあげました。私はそのときまでしても「あぁ、祖母がそれでも私を心配したんだな」と考えていましたが、決してそんな意味ではありませんでした。遺書に祖母を書かず兄とおばさんにだけ書いたという理由で怒りまた暴行しました。
もっとひどかったことは北欧に私と兄と祖母と家族旅行に行ったとき、突然祖母が私を部屋に呼び私は母が間違って生んだとハンガーで私を叩き首を絞めました。けれど今でも困惑することは、祖母がお前があのとき話を聞かなかったから訓育しただけだと言うたびに学校暴力の加害者がただ冗談でそうしたと釈明するのと同じようでした。
遺書の話を続けるとすれば、祖母は私を育てられないと言ったことで米国に行く、おばさんのところに行くと2つの選択肢を与えました。しかしおばさんのところに行けば生活費を10ウォンも与えないと言われ、気持ちはおばさんのところに行きたいけれど未来を考えて米国に行くと決定しました。
その後私が母の功労賞を受け、こっそりと留学準備をしました。私の記憶では当時MBCドキュメンタリーを撮影していました。放送では本当に努力し、幸福に見える場面で演出されるか分からないけれど、私はとてもつらかったです。
米国に旅立つ直前にジンギョンおばさんと新羅ホテルで外食をし、私はこっそりジンギョンおばさんに行きたくないという視線を送り、ジンギョンおばさんは私の話を聞いてくれ「行かないほうがいい」側に私の味方になってくれました。しかし祖母はその後ジンギョンおばさんの悪口を言ってあいつが何だっていうんだという言葉を頻繁に言いました。
次はヨンジャおばさんがキム・デオ記者などあちこちに話をし、ジュニをどうやって助けるか考えて父方の家に連絡をし、父方の祖父は「チョ姓でもなく、我々の孫ではないので気にしない」と無視しました。
そして米国に渡り、私を知り合いの家に任せることにしていましたが、ほぼ養子水準であり、もっとひどかったことは私が滞在せねばならなかった家は細かくは言えませんが不安定な状態の家庭であり、私は韓国ではないためもっと怖くなりました。
結局米国に渡り、米国でもヒューマンドキュメンタリーを撮影し、そこで通う学校も見ればおかしなインチキ宗教と関連した学校でした。私はもっと怖くなり、果たして私がしっかり生きていけるのか疑いばかりが大きくなりました。
これは本当に違うと祖母に切実にお願いしました。どうか韓国に戻してと。これは違うと、けれどどうしたことか祖母が悩んだ挙句に再び韓国に戻ろうと言ったためすべての計画はおじゃんとなり、私は本当に幸いだと考えました。
けれど不幸はここで終わりではありません。韓国に戻った後、私は祖母の恨みと言う恨みはすべて聞き、私はまたスンウィ小学校に通おうとしましたが、留学手続きではない退学手続きをしたためもう一度小学校に戻ることはできませんでした。
こうして私は数ヶ月間学校に通わず、祖母は私を兄のいる国際学校に一緒に送ろうとしました。これまで目いっぱい勉強させられ、私は精神的にもつらかったのですが国際学校に合格しなくてはいけないという周囲の大きなプレッシャーによりもっとつらかったです。
一日一日がつらく疲れ苦しい中、祖母と戦争は終わったように見えましたが再び開始し、私はずっと勉強に苛まれました。そしてある日曜日の朝に私は土曜の夜に勉強して遅くに寝て、祖母は協会に行く準備をしながら化粧をしていました。
ところが突然寝ている私に自分のアイライナーがなくなったと私を泥棒扱いしました。よりによって一番敏感で疲れているときに私を泥棒女だと呼び、お前は小さい頃から盗んでばかりだったと私にまた傷を与えました。
一旦ここまで書きます。今2017年8月5日土曜日夜1時55分である現在も家庭の中はばらばらです。警察もやってきて大忙しです。今この事実を知らせずに死んだらとても悔しいなと思いまずは載せます。長い話を読んでくださりありがとうございます。助けてください。 - スタートゥデイ ソン・ジョンウン記者 / 写真=チェ・ジュニさんインスタグラム | 入力 2017-08-05 07:24:32