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  • Q.
    早死にした韓国の芸能人④…韓国バラードの新たな地平を開拓したユ・ジェハ
  • A.
    早死にした韓国の芸能人を紹介して、亡くなった年齢に合わせて数人を共に紹介しましたが、今回は1人だけを言及しなければなりません。

    公平性に欠けますって?そうですね。しかし、短い人生でしたが、彼が韓国の大衆音楽に及ぼした影響があまりにも大きくて、彼の死があまりにも残念で惜しいという気がするので仕方ありません。

    主人公はシンガーソングライターのユ・ジェハ(柳在夏)です。1987年11月1日に交通事故で25歳という若さでこの世を去りました。

    事故が起きる前日、ユ・ジェハは今まで行ったことのない同窓会に行くと言って家を出ました。次の日の明け方、酒に酔った友達が運転した車に乗って帰ってくる途中、龍山区(ヨンサング)、漢南(ハンナム)大橋近くの江辺(カンビョン)北路で中央線を越えて反対車線から向かってきたタクシーと正面衝突する事故に遭いました。

    ユ・ジェハの友達の話では、音楽の練習を終えてから同級生に会いましたが、すでに一杯飲んだ友達が嫌だというユ・ジェハを無理矢理、乗せて行ったそうです。一説では、愛する女性の所に行く途中、事故に遭ったとも言われています。

    ユ・ジェハの恋物語は、かなり多くの人々にうわさされました。

    1980年代末、当時としては大金の自費800万ウォンを投入して** リリースしたアルバム『愛してるから』で愛する女性との思い出をそのまま綴っています。女性を思って、やりとりした手紙を読んで作った曲です。

    * 作詞作曲、編曲を一人で行ったのはもちろん、オーケストラ伴奏を除いたすべての楽器を一人で演奏しました。オーケストラは大学の後輩と知人たちを交渉して設けました。アルバムの伴奏を手伝った大学の後輩は「こんなことをしたら、学校を退学にさせられるんじゃないのか?」と心配までしたという後日談があります。ユ・ジェハの恋人はこのアルバムでヴァイオリン、オーボエ、フルートを担当したそうです。

    漢陽(ハニャン)大学の作曲科に通っていたユ・ジェハとソウル音楽大学でフルートを専攻していた恋人は、音楽大学の連合サークルで出会ったと言われています。ピアノがあるカフェで『君よ、僕の胸に』を歌ってプロポーズもしたそうです。アメリカに留学に行った恋人に、とても会いたくてアメリカまで行きましたが、事実上別れの通知を受けて作った曲が『隠された道』**だそうです。そうするうちに、また付き合って愛を育み、ソウルオリンピックが開かれる1988年に結婚する予定だったそうです。付き合って別れて、また付き合う恋物語が『愛してるから』に含まれています。

    初めて感じた君の眼差しは、僕だけの誤解だったのか
    明るい微笑で僕をバカにした

    僕のそばを離れた日、胸に抱いた桃色の数多くの思い出が
    青く染まってしまった

    昨日は去っていった君を忘れることができない僕が憎かった
    だが、もう悟った。君だけの僕だったことを

    また戻ってきた君のために僕の全てを捧げるから
    僕たちは、このまま永遠に別れないだろう(下略)

    ** キム・ヒョンシクに『隠れた道』を与えて、ユ・ジェハは最初の数節は冷静に歌ってほしいと要求したそうです。聞いてみれば分かるだろうが、最初の数節は、声が小さいが願望が含まれています。

    ユ・ジェハが亡くなった後、悲しみを和ませるためにスイスに旅行に行った女性は、1周期になった晩秋、川辺のあるカフェでユ・ジェハの歌を聞いたそうです。カフェで仕事をしていた留学生が、いい歌と言って、カフェの主人にレコードを渡したそうです。先にこの世を去った恋人の歌を地球の半周も離れた他郷で聞く心情はどうだったのでしょうか?

    漢陽大学の作曲科で純粋音楽を専攻したユ・ジェハの学生時代、このようなエピソードがあります。
    課題で提出した曲を受け取った教授が「いくら急いでいたとしてもモーツァルトを書き写してはいけないだろ?」と叱ったという話です。教授がモーツァルトの楽譜だと勘違いする程、優れた実力を持っていたという反証です。

    クラシックを専攻したせいか、ユ・ジェハの歌はクラシックと大衆歌謡が結ばれています。クラシック専攻者は、大衆音楽をする人を「芸能人」程度の低級だと感じる雰囲気であり、大衆歌謡評論家はユ・ジェハの歌を高く評価しませんでした。当時は、テレビ番組に出る前、PDに事前テストを受けましたが、歌唱力不足でいつも落ちたそうです。

    しかし、放送で流れたユ・ジェハの歌はものすごい反響を起こしました。イ・ムンセが司会を務めるMBCラジオの『星が光る夜に』という一週間の申請ハガキと放送回数を集計して、歌謡順位を決める「星夜チャート」を行いました。そこで『過ぎた日』が長期間1位を疾走する記録を残しました。

    イ・ムンセは放送で泣きながら、ユ・ジェハの死亡の知らせを伝えました。事故の後、ユ・ジェハの音楽は光を放ち始めました。アルバムを1つだけリリースした25歳の青年が注目を浴びたのでしょうか?

    韓国の大衆音楽は、ユ・ジェハの前と後で区別できると評価しています。いまだに韓国で作られるバラードは、すべてユ・ジェハの模倣作という評まで聞こえるほどです。

    音楽評論家イム・ジンモは「韓国のバラードはイ・ヨンフンが来てドアが開き、シンガーソングライターの世界、すなわち創作と作曲、編曲の世界へバラードの地平を開拓した人は、ユ・ジェハ」と話しました。ユ・ジェハは、韓国の大衆音楽にガムのようにくっついていた新派組のいわゆる「韓国の演歌風」を除去したという評価を受けます。簡単に言えば韓国の大衆音楽の格を上げたということです。

    アルバム収録曲の中の一つ、『僕たちの愛』の楽譜。

    25歳の青年が韓国で大衆音楽をする人もクラシック専攻者に堂々と対抗する道を開いて行きました。 多くの音楽家がユ・ジェハを忘れることができない理由です。

    - 歌手イ・ジョク(李笛)は、作詞作曲、音楽に対する姿勢などほぼすべての部分で最も大きな影響を及ぼした歌手としてユ・ジェハを挙げました。
    - ソウル音楽大学の作曲家を卒業したユ・ヒヨル(柳喜烈)は、クラシックを専攻することになった契機は、ユ・ジェハだと語りました。ユ・ジェハがいなければ、今の位置に立てなかっただろうと、彼に尊敬の念を表わしています。
    - シンガーソングライターのユ・ヨンソク(遊泳席)は、ユ・ジェハに対して驚き、嫉妬、尊敬を一度に感じると言いました。
    - ベートーベンを知ってるバラード歌手と言われているキム・ドンリュル(金東律)は、ユ・ジェハの死で韓国のバラード音楽が100年は退歩されたと話しました。
    - 歌手シン・スンフン(申昇勳)は、ユ・ジェハを追慕するためにデビュー日をわざと11月1日にしました。
    - ユン・ジョンシン(尹鍾信)は、「心の中のライバルとして彼について行こうとしましたが、特に作詞は全然追いつけなかった」と話しました。

    ユ・ジェハを非常に大切にしていた先輩歌手のキム・ヒョンシク(金賢植)は、ユ・ジェハが亡くなった3年後の1990年11月1日、32歳という歳で亡くなります。韓国のアンダーグラウンド音楽を主流に引き上げて、当代最高の人気を享受した歌手キム・ヒョンシクに対する話は次回に続きます。