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  • Q.
    早死にした韓国の芸能人⑤…愛の歌客、キム・ヒョンシク
  • A.
    ユ・ジェハとキム・ヒョンシクは一時共同作業をしました。ユ・ジェハが漢陽(ハニャン)大学を卒業した後、キム・ヒョンソクが率いる「春夏秋冬」に合流しました。

    キム・ヒョンシクがメンバーに曲を書いてこいと言ったところ、ユ・ジェハはその時まで自分が書いた自作曲を10余曲、全部持ってきたそうです。ところが公平性に欠けるためアルバムにメンバー当たり一曲ずつだけ入れると言われたので、ユ・ジェハはチームから抜けました。(この時、キム・ヒョンシクがもらった曲が『隠れた道』)ユ・ジェハは自分だけの音楽を追求したかったのです。

    • 2集アルバムのキム・ヒョンシク。当時、ロックバンドの象徴だった長髪、革ズボン姿とはかけ離れています



    別々の道に進みながらも二人は酒友達として仲よく過ごしていたそうです。キム・ヒョンシクはユ・ジェハを本当に大事にしていました。当時、大衆音楽界ではめったに見ない名門大の音楽学科出身だったからです。ユ・ジェハ以前にも漢陽(ハニャン)大学の音楽学科を卒業した歌手チョ・ヨンナムがいましたが、チョ・ヨンナムは歌を歌っただけで曲を作る才能はありませんでした。楽譜を書いて作曲する人がほとんどいなくて、楽譜を正しく見る方法も分からない歌手ばかりだった時代、ユ・ジェハは宝のような存在だったのです。キム・ヒョンシクは後輩をげんこつで殴って指導すると有名な番長派でしたが、ユ・ジェハにはいつも優しかったそうです。

    ユ・ジェハが亡くなった後、キム・ヒョンシクは悲しみに陥って大声で号泣しながら、酒を飲んで毎日を過ごしました。そのせいで肝硬変になったという話も伝えられます。「病気なら薬を飲むべきだ、なぜ酒を飲むんだ?」と知人から忠告されても酒を飲み続けました。だから、体がが耐えられませんでした。

    1989年、映画のアルバム『雨が降る日の水彩画』を録音する時から急激に気力がなくなり、1990年5枚目のアルバムを発表する当時は医師から「一滴でも酒を飲めば死ぬ」という警告まで受けました。

    病院に入院する前、ご飯も食べないで酒とタバコで持ちこたえた彼が作り出した曲がカラオケの愛唱曲である『私の愛、私のそばに』です。

    前から彼を気に入っていた東亜企画のキム・ヨン社長に会って「いつか酒を飲んでいて死のうとしたけど…」と話すほどでした。東部二村洞(トンブイチョンドン)の病院に入院した後も、よく脱出して酒を飲んで自分の体を放り投げるような行為をしました。それでも彼の手には、いつもギターがあったし、病室でも歌声が絶えなかったそうです*。入院している間、外出してアルバムを作りましたが、「もうやめよう」というキム・ヨン社長の引き止めにも吐血までしながら残した遺産が実質的な遺作となる5枚目のアルバムに収録された『愚痴』と死後の遺作『私の愛、私のそばに』です。

    * 長期間入院したキム・ヒョンシクは、同じ病院で長期入院中のある女性と面識ができました。彼女が病院で誕生日を迎えることを知ったキム・ヒョンシクは他の患者と看護師が囲んで座った中で生涯最後のコンサートを開きました。21曲を歌って、これを録音したテープを誕生日プレゼントに与えました。退院した女性はテープを聞くたびに胸を痛め、移民してからはキム・ヒョンシクの熱狂的なファンである後輩に渡しました。10年余りのあいだ惜しんで聞いた後輩は、キム・ヒョンシク追慕放送を見て、これを世の中に出すことを決心しました。キム・ヒョンシクの母親も快く同意して17曲を生き返らせ、アルバム『The Sickbed Live』を作ることになります。

    ユ・ジェハの命日である11月1日、キム・ヒョンシクは病院でキム・ヨン社長に「社長、僕は大丈夫だから今日退院して明日録音を始めましょう」と明るい声で電話をしたそうです。キム社長は嬉しさのあまり「それはよかった、でも体を考えて休みながらゆっくりやろう」と返事をしました。

    この電話を最後に2時間後、キム・ヒョンシクは生涯を終えました。死亡の知らせを聞いたキム・ヨン社長は「そんなはずがない!2時間前にヒョンシクが明日でも録音できると言ったんだ!それなのに、ヒョンシクが死んだというのか!」と大声を張り上げて嗚咽しました。

    あんなにかわいがっていたユ・ジェハのそばに行くことになり声が明るかったのでしょうか?ユ・ジェハと会う前も性格が激しくて、酒タバコが好きでしたが、キム・ヒョンシクの死からユ・ジェハを除くことは難しいです。

    3人組ヒップホップグループ、Epik High(エピックハイ)は、2人のミュージシャンに捧げる献呈曲『11月1日』を作って自分たちの正規アルバムに収録しました。この歌でキム・ヒョンシクとユ・ジェハの縁が再び照明を受けたりもしました。

    • キム・ヒョンシク(1958.2.18-1990.11.1)の人生を扱った映画『雨のように音楽のように』



    高校1年生の時、先輩の楽器に触ったという理由で暴力を振るわれた後ケンカをして、両親に秘密で自主退学書を書きます。そして、さまよったキム・ヒョンシクはギターを持って音楽喫茶店を転々として歌を歌います。アンダーグラウンドで注目される新人になったのです。

    1集アルバム『春夏秋冬』が失敗した後、悲観したキム・ヒョンシクは新村(シンチョン)の服屋の女性に惚れて結婚し安定を取り戻しました。その後、生計のためにオープンしたピザ店が失敗した後、再び夜の舞台に出て行きましたが、1984年に出した2枚目のアルバムの『愛したんです』がヒットして歌手として地位を確立しました。

    『愛したんです』はキム・ヒョンシクが作詞作曲した歌です。この曲以外にもキム・ヒョンシクが作詞作曲した曲がたくさんありますが、意外にシンガーソングライターのキム・ヒョンシクはあまり知られていません。

    キム・ヒョンシクは音楽スタイルや高校中退、薬物中毒、反抗的な人生、若い歳での早死になどが日本の伝説的なシンガーソングライター尾崎豊と似ていたという話をたくさん聞きます。26歳で死んだ尾崎豊に比べてキム・ヒョンシクが現世で送った歳月は、6年長いという点だけが違います。2人の歌手が伝説を書いて行った時期は同じです。