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[筆洞情談]徳寿宮石垣道

    「これからは皆、歳月とともに跡形もなく変わっていくが、徳寿宮石垣道(トクスグン トルダムキル)にはまだ残っている。仲良く歩いていく恋人たち」

    40・50代であれば、目を閉じても口ずさむことができるイ・ムンセの歌『光化門恋歌』。変わらないものたちが恋しくなるとき、たまに徳寿宮の石垣道(貞洞道/チョンドンギル)を訪れる。貞洞劇場、ソウル市立美術館、貞洞教会など古色蒼然とした建物が与える温かさは江南の洗練美になぞらえることができない。『光化門恋歌』の作曲家イ・ヨンフンが2008年に逝去した後に製作された歌碑もこの道に残っている。恋人とともに歩くと別れるという噂のために恋人とのデートはタブーとされた。この俗説は今のソウル市立美術館の場所に家庭裁判所があり離婚しに行く夫婦がこの道を通ったことが由来だという。

    今では美しい宮殿の外郭道に数えられるが、徳寿宮の石垣道はもともと徳寿宮の一部に日帝が宮殿を毀損する過程でできたものだ。徳寿宮も宮殿ではなく世祖(セジョ)の長男の懿敬世子(ウィギョンセジャ)が夭折した後、王室から世子嬪のために用意した私邸だった。懿敬世子の弟が王(睿宗/イェジョン)になりながら、懿敬世子の息子の月山大君(ウォルサンデグン)と者乙山君(チャウルサングン)が起居した。以後、次男の者乙山君が韓明澮(ハン・ミョンフェ)の婿という点のため、成宗(ソンジョン)に即位しながら月山大君の所有となった。

    宮廷で使われるようになったのは文禄・慶長の役で避難していた宣祖(ソンジョ)が戻ってきてここを行宮としてからだ。以降光海君(クァンヘグン)が慶運宮(キョンウングン)と称し、彼が昌德宮(チャンドックン)に戻り、仁穆大妃(インモクデビ)を幽閉させたりもした。その後、200年間空いていたが、高宗(コジョン)が露館播遷した後、宮殿に戻って使用した。日本に脅威を感じた余り1880年代に入って慶運宮跡の一部を西欧列強公使館用地として切り離しながら、徳寿宮の面積は減って近くに外国公館が立ち並ぶことになった。

    大韓帝国末期のような悲しい歴史のために、徳寿宮の石垣道は完全に市民のものにならなかった。全体1.1キロメートルのうち、英国大使館前170メートルは去る58年間統制されていた。

    ソウル市が2014年にイギリス大使館に「徳寿宮石垣道回復プロジェク」を提案しながら、そのうちの100メートルが先月30日から市民に開放された。残りの70メートルは英国大使館が所有権を持つ区間として開放から除外された。道がより開かれたのは嬉しいが、依然として戻って来なければならない。徳寿宮石垣道が完全に開かれる日を期待している。
  • 매일경제 심윤희 논설위원 | 入力 2017-09-03 09:00:00