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「永遠の国民打者」イ・スンソプ...第2の人生、幕開く

  • ソウル市瑞草区(ソチョグ)。良才駅の近くに位置した建物の階段を上るやいなや、ゼッケン36をつけた野球選手が子供たちと一緒にいる姿が描かれた看板がまず目に入った。あえて文字を読まなくても、「国民打者」李承燁(イ・スンヨプ、42)の事務所であることを感じることができた。よくいらっしゃいましたと握手を求めた李承燁は、見慣れた青いユニフォームの代わりにシャツを着ていたが、彼の手はいますぐ今夜の試合に乗り出してもホームランを打てるだけの力が感じられた。

    1995年にデビューした後、23年のあいだダイヤモンドを駆けめぐって昨シーズンを最後に引退したイ・スンヨプは、選手時代を通して自分を極限にまで責め立てる修行僧のように生きてきた。

    もちろんその対価として、誰もがうらやむ富と名誉を得て韓国野球のアイコンになったが、1年の間に144試合をしっかり戦うために、何ひとつ楽しめなかったことが彼の人生だった。今は勝負と訓練の世界を抜け出して、いつのまにか半年。母の日に会ったイ・スンヨプはこの間に多くの新しい肩書きを得たが、依然として野球が与えるぴりっとした感覚を忘れない様子だった。午後には故郷の大邱に下って父に会い、翌日は小学校での講演もしなければならないので忙しいと訴えたが、写真撮影のためにバットを握る瞬間だけは、ホームランに飢えた一匹の獅子を見ている感じが蘇った。

    • 李承燁(イ・スンヨプ)選手が自分の奨学財団の事務室の看板の前で笑顔を浮かべている。
      ユニフォームは脱いだが、バットを挙げときはまだ巨砲の威容が感じられる。 イ・チュンウ記者



    - まず呼称から整理するようだ。昨年まではイ・スンヨプ選手と呼べばよかっただろうが、いまや韓国野球委員会(KBO)の広報大使、イ・スンヨプ野球奨学財団理事長、解説委員、作家まで複数の肩書がついた

    △ 野球に関連する呼称が良い。広報大使として活動しながら時々解説もするが、解説委員という言葉はちょっと負担だ。委員という言葉は、いずれにしても尊称だから。理事長と呼ばれるのはもっとそうだし…。まだ選手という言葉が一番ラクで慣れている。

    - 選手時代と引退後、どちらが忙しい?

    △ 今が忙しい。体で感じている。運動選手として生きて、毎日を規則的な生活で暮らしてきた。ところが退職した後は財団まで運営し、人にも多く会わなければならなので、スケジュールを調整することも容易ではない。最近は多くの方々に会って、アドバイス聞きながら経験を積むという考え方をしている。集まりも先輩と後輩の集まりなど、3つ4つ加入したし…。人が生きていくすべてを新たに学ぶ立場なので、まるで新しく入団した新人選手になった気分だ。それでも時間があれば家族といっしょに過ごそうと思う。可能ならば、朝には子供たち(二人の息子がある)を学校に連れて行ったり、ちょっと前には下の子の学校でバザーをするというので行ったこともある。

    - 誰でも知っている有名人だが、選手時代にはやらなかったことをすることから慣れない?

    △ 選手の時に今のように歩き回っていたら、ストレスをかなり受けただろう。毎日試合しなければならないので保護されていたいし、一人でいたいと思った時が多かった。しかし今は心はかなり楽になった。成績に対する負担感が消えたからだ。反対に、体は選手のときがむしろ楽だったかもしれない。野球が苦しくても面白いからなのだろうか。躍動感と迫真感があふれ、相手と戦って勝たなければならない勝負を20年以上してみると…最近では生きていないという感じを受けたりする。全体的にエンドルフィンが少ないのじゃないか。だからといって、いますぐ試合を見ながらプレーしたいというわけじゃない(笑)。

    - 2016年に2年契約をしながら引退を予告したが、引退前でもKBO通算466号と467号の2本の本塁打を放った。もう少し選手生活ができたのでは?

    △ 選手時代のスリルを感じられないこと以外は物足りなさはない。私の人生の方向は私が選択したい。私は望んで野球を始めたので、仕上げも私の意志どおりにするべきだという考えを持っていた。そしてチームのためにも、正しい道だったと思う。日本から韓国に帰ってきても6年プレーしたので、後輩たちが上がる機会がないと思ったわけだ。私は得るものはすべて得てじゃないか。個人のためならもっとプレーして、年俸も受ければよい。しかし三星ライオンズのためにも、韓国野球のためにも、この時点で引退するのが良いと思った。さらにプレーして成績が落ちれば、むしろ残念だろう。私なりにイ・スンヨプというプライドを持っているので、それらしく終えたと思う。周辺では、状況はどうなるか判らないから引退という言葉は下手に使わないほうが良いと言ったけど。

    - そういえば引退時期をあらかじめ決めておき、そのシーズンまで頑張って、引退ツアーもした。同様に「ライオンキング」と呼ばれるサッカー選手イ・ドングクは羨ましいとも言った

    △ 遠征チームの選手に応援歌を歌ったり、歓呼する文化はまだわが国に定着していない。ところが引退するとき、打席に入ると拍手していただいて、相手チームからも配慮をたくさんいただき感動した。野球をしていて良かった、いや野球を一生懸命やってきたんだとジーンとした。今でも忘れられない。事実、予告なしに終わる選手も多いじゃないか。ケガや技量の低下に起因して球団がやめさせるなら、解雇されたわけだ。うまく別れたので、今でも行って挨拶もできるわけだ。

    - 引退ツアーではプレゼントもたくさん受けたが、何が一番気に入った?

    △ どうやって一つだけを挙げることができようか。家でよく見えるところに置いたのは、寶文(ポムン)山の松の盆栽だ。ハンファイーグルス球団でソン・ジンウ先輩からもらったその贈り物をいちばん身近に置いているけれど、すべてすばらしい贈り物だ。

    - 自分の成功の秘訣は何だと思うか?

    △ 全てを100%上手くやれたわけじゃない。私はまさに目標意識と上方意識は、はっきりとあったようだ。今日はホームラン2本打ったからと満足しなかったし、今日は頑張ったので明日は軽く…という考えもしなかった。もちろん、日本に行く前には怠惰なときもあった。 1997年はよくやったが、1998年にそれよりも軽く成績が落ちて、頑張ったところ再び上がり、また落ちたりも…。ほかの人と違う点は、野球を本当に好きだったこと。執着はないが愛着は大きい。野球が無くては生きられないと、よく考えた。ほんとうに。今も夕方になると家の外には出ず、子供のことが無ければ5試合をすべて見る。子供のために外出することがあっても、DMBに取りまとめて観戦することもある。やることに慣れたが、今は見ることにも慣れた。

    - 練習する時も簡単なことよりも難しいことを最初にするスタイルだった

    △ どうせやるなら早くして終わりにしようというスタイルだ。細く長く続けることを嫌っている。野球はスイングであれ守備であれ、とにかくしなければならないことがすべてだ。それらを全て終わらせてウエイトトレーニングをやるのは大変じゃないか。20分休んだなら、再び体が暖まるまでの時間も多くかかる。どうせするなら後が楽なほうが良いじゃないか。勉強する人たちは基礎から固めるので、簡単には理解できないとか。けっきょくは本人の意志が重要じゃないだろうか。私も大変なことはしたくないのは同じだ。 144試合するのは本当に大変だが、昼12時に出てきて「今日は一日休むか」と考えると12時半に、1時に…。しかし、今日やらないと明日やることになるので、「じゃ今しよう」ということだ。

    - まるで「私は自分自身との約束を破ったことがない」と言っていた日本の野球選手イチローに似ている

    △ 私は実際に破ったことがある(笑)。それでも他の人より少なかった。子供の頃はそうでもなかったが、日本に行って来てかなり変わった。韓国に帰ってきて、見る目が多くなって変わった。球団もリュ・ジュンイル監督も、勝たなければということではなく、後輩選手たちに良い前例を示すことを望んだ。どうかすると他意によるものだが、おかげで勤勉な人間に変わったわけだ。日本での失敗で私は完全に変わった。もし日本に行かなかったら、40代までは本当にできなかっただろう。苦しい時が長かったが、過ぎてみるとその3年のおかげで6年をさらにプレーすることができた。

    • 李承燁(イ・スンヨプ)はインタビューの中で「自ら」「一人」という言葉を強調した。派手なホームラン打者の姿後には、それほどまでに長い孤独の時間があったことを意味した。 イ・チュンウ記者



    - そのように大変な時をどう表現するか、克服したのか?

    △ 私は表現できないだ。しない。他の人々は困難なときは誰かを訪ねて会話するとかいうが、私は彼らとは反対だ。どうせ自分の仕事だし、耐えなければ死ぬまで埋め込まれる。どうせ人は一人で来て一人で行くのだから。日本で2008年から2010年までに、2軍にも行ったし自尊心も傷ついたが、私はけがをしたりしたからで誰のせいにもしなかった。

    - 大変な時の状況を変えてみるのも賢明な方法ではないか。元は投手だったが打者に転向した選択もそんなことだろうか?

    △ 私の判断ではなかった。球速は速くなくてもボールを投げるセンスのある投手だったから、打者になりたくはなかった。足も速くなく打撃も良くないのに、変更を勧められた。あとで知ったが、そもそも打者に変えようとするシナリオをチームで考えたとか。それでもいつかは投手に戻るつもりだったが、成績が良かったので「打者イ・スンヨプ」になったわけだ。いま考えてみると、投手にこだわっても数年後には変えただろう。

    占める場が人を作るようだ。 7番打者や6番打者のように、後ろの打順から4番に行くと自分でも知らずに、高卒新人が潜在力を示すようになった。当時はウ・ヨンドゥク監督時代だが、正確に覚えている。前半期にホームラン3本を打って、後半期には10本をさらに打って…以後は中心打線を脱しなかった。それからはよく食べて体格も育てて、ペク・インチョン監督とパク・フンシク監督に学びながら高速スイングを身につけた。完成度の低い選手をプロにしてくれた。

    - では打者転向以来の、選手生活全般に満足のいくものだったか?米国舞台を踏まなかったことを惜しむファンもいる

    △ ない。日本でもう少し良い成績を出していたらどうだったろう程度?日本の野球でも多くを学んだ私は、選択した私の人生だから、そんな大きな考えはない。まわりで惜しむ方をたまに見た。

    - では引退後の生活に対して話そう。どの部分に使う時間が増えたのか?

    △ 子供と過ごす時間がいちばん増えた。ところで、それほど良いわけじゃない。息子の大変な点を理解してやり、また急かしたりしなければならないから。何よりもこれまで妻がかなり大変だったと思うようになった。かつては「大変じゃないのに」と思ったが違った。子供たちは寝る時が静かで一番かわいい(笑)。子供たちに大きく望むことはないが、今日することを明日に先送りすることは嫌いだ。やりこめるというよりは、お父さんが思うにはこれが正しいという言い方をする。

    - 野球の後輩たちも同じだろうか?

    △ 同じだ。その人の人生だ。私が息子の代わりに学校に通ってやることはできない。また後輩たちの年齢の差は、私も選手だったがどうかすると同等の立場だった。助けを与えて方法論を提示してやれるけれど、やるべきだとは言わなかった。強要するとますます成長できない。私もコーチや監督の言葉を聞き流すほうだった。団体生活だからとすべて聞くのではなく、重要なのは互いに共感するものだ。

    - 三星ライオンズに限定すると、後輩たちの成績が良くなくて残念そうだ

    △ 15シーズンをプレーしたチームなので心苦しい。私がああだこうだと言えないが、よくなって欲しい。もちろんいまはKBO広報大使の立場だから、サムスンだけを考えるのは自制しよう思う。

    - 必ずしも同じチームでなくても代表として活躍し、多くの後輩たちに手本になった

    △ オリンピックとアジア大会などを祭りだというが、選手たちは絶対にそう見ることはできない。小さな戦争というか。勝負をかけて、勝たなければならないからだ。特にアジア大会は金メダルでなければ意味がなく、よけいたいへんになる。ストレスを受けるが、責任感を持って韓国代表チームという考えを持たなければならない。

    • 2008年の北京オリンピックの時、韓国対日本の準決勝でイ・スンヨプが劇的な本塁打を打って歓呼する姿。 毎経DB



    - 現役時代には国家代表で不振ながらも、決定的な瞬間にホームランを打つ姿をたくさん見せてくれた

    △ 良くないがハッピーエンドで終わったケースが多い。イ・スンヨプをはずせという声もたくさん聞いた…自尊心が傷ついたが、放棄したことはなかった。ひとつに賭ける、ここで打てなければ韓国へ帰れない、断崖だ…こんな考えで試合した。 2008年北京オリンピックの時は日本戦でホームランを打つまで、大会を通じて気が狂いそうだった。日本でプレーしていたし、中心打線にあったのに助けとならなくて申しわけなかった。先週末もキム・ギョンムン監督にお会いして、あの時に私をはずさなかったおかげで解説もできると申し上げた。事実、運がよかった。

    - 会話をしてみると、責任感が非常に大きいようだ。最近出版した自叙伝も、苦労しながら一人でできる限り書いた。ストレスはどのように解消するのか?

    △ 日本に進出する時点から、本を書こうという提案は多かった。選手時代には運動に集中し、引退の時点に合わせて本を出す計画だった。収益金は全額を財団に寄付することにしたので、誠心誠意書いた。書きながら頭が割れるほど大変だった。「頭でネズミが回る」という表現を初めて感じた。それでも外でのことは、家に帰っては出さない。むしろうまくこなして気持ちよく表現する。妻や両親にもツラいことは言わなかった。一人で考えながら、それも面白いし。私の生活パターンを見ると、家族と財団のこと、解説などをし、仕事のない時間には外にあまり出ない。友人や先輩・後輩とも主にムンチャ(電話のショートメッセージ)程度で、唯一楽しむのはゴルフだ。

    - ゴルフはどうなのだろうか、気になる。打撃とゴルフは違う?

    △ 練習をあまりしないので、80代前半から90代初め・中盤を行ったり来たりする。打撃スイングとゴルフのスイングは完全に、全く異なっている。練習すればよくなるだろうが、それも面倒だ。現役時代には一週間にウエイトトレーニングも3回は欠かさなかったが、この頃はジムへ行くと風呂に入ってばかりだ(笑)。引退後に100回行ったのに、本当に一度もしなかった。有酸素運動でもちょっとやるべきなのに…。

    - それとは逆に、パク・チャンホ選手に劣らず奨学財団の仕事は本当に熱心だが

    △ 事実、今日も財団を後援してくださる方々にお礼として講演をするために大邱に下る予定だ。名前だけを載せて仕事をしなければ、財団がうまく回ることはないだろう。安定するまでここに邁進してこそ、後に別の仕事をしても気楽にできるだろう。以前、パク・チャンホ氏の奨学財団20周年行事に招かれて行ったが、支援を受けた選手が多くて驚いたし羨ましかった。必ずしも偉大な選手でなくても、社会に出て良い縁を結んだなあと思わせたいし、子供の頃の思い出のある言葉を聞いてみたい。韓国野球にちょっとした貢献でもすればさらに良い。

    - とは言え、成績や実力は野球を愛する人々に与えることのできるすべてではない。最近の野球選手のファンサービスがまな板に上がることもあったが?

    △ 私の選手時代にサインをなおざりにしたりした部分について、認めることは認めている。個人的にもチームや私の成績に対して一人で考えて悩むタイプなので、スタジアムを離れると帽子をかぶって地面だけを見て歩き…じつはしんどいこともあった。しかしファンサービスを優先すべきだったのに、考えが足らなかったと思う。私がファンサービスに失敗したので、最近の後輩たちに対する似たような批判を聞いたとしても、どうのこうのと言うことはできない。野球を愛してくれるファンに謝りたい。この問題はファンが思っている通りが正解じゃないだろうか。間違った部分を認識し、引退して成績に対する負担感が消えた今はさらに交感しようと思う。

    - スタジアムに戻るつもりは?指導者として戻ることについてどのように思うか?

    △ いつかはその時が来るかもしれない。しかし、今はその時ではない。選手の心も知って知識も必要だが、まだ準備がまったくできていない。一度は指導者として戻りたいという思いはあるが、もう少し後に呼んで欲しいと事前に要請することもできず、準備ができているのに要請がなければなることもできない。水が流れるように、階段を上るようにしてこそで、チームと私が互いに望まない状況で無理をすれば失敗する確率が高いだろう。

    - 最後に、なぜそんなに野球がいいのか、なぜ野球だったのだろうか?

    △ 子供の頃、パーマ頭をしたOBベアーズのパク・チョルスン選手が素晴らしく見えた。草野球でフォームをまねして…こうして野球を始めることになった。幸いなことにホームランやヒットを打ったときのぴりっとした感じを20年以上にわたって感じることができた。長編映画やドラマを終えた感じだ。もし終わりが良くなかったなら、歯ぎしりしながら野球を見ないかもしれなかったが、それはなかったので野球を続けて好むことができる。死ぬまで野球場の近くにいるだろう。

    ■ イ・スンヨプは…

    1976年大邱で生まれ、幼い頃から野球を楽しんだ。投手の有望株だったが、1995年に三星ライオンズに入団した後に打者に進路を変えて、2003年までに5回のMVPと本塁打王を獲得し、特に2003年には本塁打56本で当時のアジアシーズン最多本塁打記録を立てた。

    以降は日本プロ野球(NPB)に進出して千葉ロッテマリーンズ、巨人、オリックスバッファローズでプレーし、2012年に古巣の三星に復帰して、2017年シーズン以後に選手生活を終えた。 2000年シドニー五輪から2013年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)まで代表として活躍した。現在はKBO広報大使と野球解説委員として活動しながら、イ・スンソプ野球奨学財団を運営している。著書に『私。 36.李』がある。
  • 毎日経済_イ・ヨンイク記者 | (C) mk.co.kr | 入力 2018-05-11 17:44:00