A. | 上の写真も下の写真も同じ建物です。看板をCGで「クムガプラザ」に変えただけです。 世運商街(セウンサンガ=セウン商店街)から清渓(チョンゲ)商店街とすぐ前の世運橋で、ドラマ『ヴィンチェンツォ』の撮影が多く行われました。比較的広い空き地もあり、パーティーをしたり暴力団と格闘したりするシーンもここで演出されました。 空き地は2008年に当時のオ・セフン(呉世勲)ソウル市長が主導した再開発計画によって、世運商店街の鍾路(チョンノ)側にあったいちばん北端の建物である現代(ヒョンデ)商店街を撤去することによってできたものです。2015年までに世運商店街をすべて壊した後、鍾路の向かい側にある宗廟(チョンミョ)と南山(ナムサン)を結ぶ緑地と住商複合施設を建てるという計画でしたが、小さな空き地だけを残したまま撤去計画は取り消されました。 もとはと言えば、世運商店街が最初に偉容を現した時の姿は住商複合施設でした。パク・チョンヒ(朴正煕)政権時代の経済開発の象徴でもありました。
1961年の「5.16軍事クーデター」に加わった後、内務長官まで歴任したキム・ヒョンオクはソウル市長在任当時、軍事作戦を連想させる推進力で世運商店街の他にも汝矣島(ヨイド)開発、永同(ヨンドン)地区開発など重要な役割を果たしてきました。 世運商店街は韓国初の住商複合マンションとして建設されました。鍾路3街から忠武路(チュンムロ)まで現代、清渓、三豊(サムプン)、豊田(プンジョン)ホテル、新城(シンソン)、晋陽(チニャン)商店街へと続く約1キロメートルの超大型の住商複合商家郡でした。世運商店街の中にはホテルまであったというわけですよ。 世運商店街が建設される前の一帯は、北朝鮮から下って来た避難民とやみくもに上京してきた田舎の人々が集まって暮らしていたパンジチョン(掘っ建て小屋の集落)でした。北側の端にある鐘路3街は集娼村でした。「鍾三(チョンサム)」は風俗街の代名詞でした。
世運商店街の建設は文字通り「電撃作戦」でした。「ナビ(蝶々)作戦*」で風俗街を瓦解させ、着工から完工までにかかった期間はわずか2年です。 1966年6月、パク・チョンヒから貧民層の村の撤去計画を裁可されたキム・ヒョンオクは、わずか2か月で撤去を完了したほどです。 *風俗街を訪れる客を蝶にたとえ、「鍾三」をうろつく男たちに困難な質問を浴びせかけて追い出すやり方で営業を妨害しました。 世運商店街の名は「世界の気運よ集まれ」という意味です。それだけ初期の計画は大きいものでした。地上は車道と駐車場にし、3階は公衆廊下**として鍾路から忠武路までをつなぐ計画でした。屋上には庭園を作り、ガラス屋根をかぶせるという構想です。 **公衆廊下を利用するためには、わざわざ数階に上がらなければならず、そのうえ一部の区間は途切れていて通行できませんでした。しぜんに人々は地上の車道を通るようになりました。 商店街のマンションも当時としては珍しい超豪華マンションでした。庶民としては初めて見る広い高級住宅でした。しかし当時はマンション文化に不慣れで、お金持ちの関心を引くことができず、マンション文化に慣れようかという頃には再開発ブームに乗った江南(カンナム)に押され、高級マンションとしてはまともに力さえ発揮できず衰退していきました。 空いた住居空間は事務室や工場、あるいは倉庫に変わりました。それでも韓国を代表する電子商店街として定着していました。 世運商店街は開発される前から、米軍部隊から持ち出したさまざまな古物を直して販売する事業所が立ち並んでいた場所で電子製品や電気製品だけでなく、文字通り「無いものを除いてすべてある」ような商店街でした。「鍾三」の痕跡も残っています。 しかし、やがて龍山の電子商店街などが開発されて、「電子商店街のメッカ」としての地位も失われてしまいました。 世界の気運を集めるのに失敗した世運商店街は、現在は再生作業を行っています。宗廟から南山まで続く都心歩行路も進行中です。散歩が好きな人なら、しばし歩きながら昔の面影を探すのもいいでしょう。 |