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ぶらりソウル散歩…時間の町、聖水洞①/③


  • ぶらりソウル散歩…時間の町、聖水洞①/③
特別な予定のない週末には、近い場所で散歩してみるのもいい。幼い頃に住んでいた町内、妻や夫とデートした場所、友人が引っ越して行った慣れない町など、どこでも良い。聖水洞のように、懐かしい風景が生きており、特別なトピックのある町内であれば、何の縁がなくてもゆっくり歩いてみるだけのことはある。

私の知っている靴はここの1%に過ぎなかった

地下鉄2号線に乗った。聖水駅が気になった。地下鉄の地上区間は高架鉄橋となっており、ここは都会の特別な風景として位置づいている。聖水駅は周辺の工場地域に入れるゲートに奇妙な魅力を持った場所だ。聖水駅自体が「シュースポット(SHOESPOT)」という博物館レベルの展示を毎日ひらいており、聖水洞一帯の古い靴作業場、革工場、関連小物工場、印刷所、鉄工所などはその場所から廃墟の美学を発散している。聖水洞工場地帯はただ歩くだけでもいくつかのインスピレーションが起きるエネルギーを持っている。ここに個性がはっきりしたカフェと、聖水洞でのみ会うことができる独特な商店、芸術家の作業室たちはここを訪ねる人々に未来に向かう時間旅行のチャンスを与えもする。

聖水駅で降りてプラットホームを抜けてすぐ下の駅舎2階に降りる。改札口を過ぎれば1番、4番出口または2番、3番出口に続く130メートルの長い通路空間が登場する。この場所に「手製靴産業のメッカとしての聖水洞物語」が展示されている。展示を順番に見たければ展示案内文に書かれている1、4番出口側からはじめるのが良い。展示は4つの小トピックで区分されている。「クドゥジウム(GUDUSEUM)」は韓国手製靴の歴史を、「シューダーツ」は手製化のメッカとなった聖水洞の話しを、「靴職人工房」は職人たちが作る手作り靴製作の順序などと靴の常識を、「ダビンチクドゥ」は靴と関連した話しを通じた想像力を誘導する。ひとつひとつ、ゆっくり観察すれば手製靴製作の基本となる「ラスト(靴型)」、革で覆いかぶさったミシンなど靴工具、手製靴の職人たちの手垢や時間を感じさせる靴を通じて、手製靴の価値を感じさせることはもちろん、これまで知らずに過ごしていた靴関連の知識を確認する喜びも享受することが出来る。

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靴(韓国語:クドゥ)の語源は日本語の「くつ(靴)」から始まった。それより以前には、西洋から入ってきた履物という意味で「洋靴」または「洋鞋」と呼んでいたが、日本から製靴技術を学んだ人々がソウルに洋靴店を開き始めながら名前も日本語そのままに「くつ」と使用されて「クドゥ」に落ち着いた。靴は開化期アーリーアダプターたちのロマンのひとつだった。19世紀末、朝鮮に吹き荒れ始めた「開化の風」は「新しい文化」に飢えていた「開化クン」という階層を作り出し、開化クンたちは文明の開化と同時に、新聞の象徴であった「開化鏡(メガネ)」、「洋服」、「自転車」などとともに「靴」を「死ぬ前に必ず経験したいバケットリスト」のひとつに挙げた。それだけだっただろうか。コーヒーも、新興貴族たちが乗っていた人力車も、皇族の自動車も、時計も彼らの眠っていた欲望を揺さぶる文明のモノであっただろう。

靴と関連した新しいエピソードも展示されている。女性ファッションの代名詞であるハイヒールは、本来男性だけの所有物だった。中世以前、乗馬は男性たちだけの占有物だった。馬と物我一体となるためにはブーツが鐙に固定されなければならないが、そのためには必ずかかとにヒールを付けねばならなかったのだ。17世紀に太陽王であり、今日の名品を産業化するのに決定的な役割をしたルイ14世が乗馬用ブーツから着眼したハイヒールを履き始めた。皇帝の破格的な靴ファッションを見た貴族たちは、すぐに真似し始め、間もなく流行として広まった。小さく可愛らしい足を比ゆする「シンデレラサイズ」は靴を作る人々の間で通用する言葉だ。童話から由来した表現だが、最近はこの言葉を好んでは使用しないという。ややもすると「私が王子に出会って運命を変えようとする女性に見えるのか」という意外な反応も少なからず出るためだ。

靴が大衆化されはじめたのは1925年、ソウル駅が完工されて以降だったと展示は記録している。ソウル駅には大型物流倉庫があったのだが、この場所から搬出された革が流通されはじめて、ソウル駅のわき腹程度といえる藍川橋に靴工房が出来始め、朝鮮戦争と前後して米軍部隊から出てきた中古の軍靴が紳士靴として再加工されながら、藍川橋はより大きな手製靴市場となった。開化期アーリーアダプターのロマンだった靴は1970年代に入ってからは厳しい暮らしの中でも必ず一足はなくてはならない、一種の贅沢品となった。1974年に韓国のチャジャンミョン1杯の値段が50ウォンだった当時、手製靴一足の価格が男性靴は1万4000ウォン、女性靴は9000ウォンだった。1980年代には明洞を中心に「サロン靴」が流行した。すべて手製靴だった。七星製靴、ソニー靴店などで作られた手製サロン靴は在庫がないために売ることができなかったほど。セールなどをしたものなら、明洞派出所から警察官が出てきて道を整理せねばならないほどに多くの人が集まったという。聖水洞を産業としての靴生産地に導いたのは、クムガン製靴だった。1990年代にはクムガン製靴工場がここに入り、つづいて大小の工場が店を開いてこの場所は靴、皮革、副資材工場地域となった。当時、聖水洞に入居して新しい人生を始めた中堅の靴工たちは、現在経歴50年を見つめる靴職人として聖水洞の文化を積み上げている。

<続く>
  • Citylife第477号(15.05.12付)/文・写真=イ・ヨングン(旅行作家)/参照=ソウルデザイン財団
  • 入力 2015-05-06 17:53:24




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