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韓国のトッポッキ由來、屋台の食べ物になるまで

韓食世界化の主役 

  • 韓国のトッポッキ由來、屋台の食べ物になるまで
1970年代から人気を集めていたトッポッキは、様々なブランドが全国にチェーン網を備えるほどで、依然として大衆の食べ物として活況の勢いだ。

韓食の世界化は、以前の政権で4大河川整備事業の次に論議が多かったようだ。事業の妥当性や内容はさておき、揶揄される要素があったからだ。何より、トッポッキが事業内容の主要骨子として登場してからだ。韓国の大衆料理の象徴を外国に紹介して売るというのは素晴らしい発想でもあるが、批判も付随した。

民間研究所でトッポッキを研究するようにと巨額の支援金を与えるか与えないかのいざこざがあり、きちんとした韓食を置いて、なぜよりによってトッポッキなのかという批判も多かった。その主張の核心を見ると、トッポッキは「べたついて歯にくっつく(sticky)性質があり、西洋人が嫌う」というものだった。すると、「外国人はただ西洋人だけいるのか、日本人が韓国に来て一番好むのがトッポッキだ。白人だけ外国人の中心として見る事大主義だ」という反論が提起された。

異なる論難もあった。文化商品として輸出しようとしながら、学校前の不良食品追放目録には常に一番目にトッポッキが上がっていた。このようなハプニングの中で、今回の政権も韓食世界化を続けることを宣明しながらトッポッキが再度登場した。大統領が直接言及までした。それこそ、とてつもない生命力だ。

宮廷で有り余った餅で正月につくって食べていた特別な食べ物が、どうやって大衆化の一番先頭に立ち、結局は国家広報事業の象徴になったのだろうか。このような状況で、以前の政権のもとでトッポッキが有史以来、2番目に活況の勢いに乗り始めた。

1番目の活況の勢いは、もちろん1970~1980年代だ。学校前の文具店や簡易飲食店で辛い小麦粉トッポッキを売りながら、とてつもない人気を集めた。当時、この間食に勝つ品目がないほどだった。その時代に学校に通った40~50代は、一皿20~30ウォンずつしていた辛いコチュジャントッポッキが忘れられないはずだ。最近の取材によると、全州地域では有名製菓店でも販売した。全州太極堂の人気メニューだったという、いくつかの証言を確認した。他の地域でも同様だった。

トッポッキの歴史で2番目の活況の勢いが訪れたのは、経済不況のせいだった。ストレスは積もるがお金はない大衆が、辛いものを求めた。その人気を先導したのはフランチャイズだった。アッタル・ククデトッポッキ・ジョーストッポッキのようなトッポッキブランドが大きく人気を集め、全国的チェーン網を備えるようになった。「ジョポク(やくざ)トッポッキ」という希代の商号が、弘大前を出入りする人たちに広く知られる事件もあった。本来、屋台で営業していたこの店は、今では堂々とした店を得て合法的に営業するほど大きな人気を得た。

流行の先端を走る狎鴎亭と明洞にトッポッキのフランチャイズ店ができるとてつもない変化も演出した。あらゆる食べ物が新しく出て市場を主導するが、依然として韓国の間食はトッポッキとスンデ・串刺しおでんが先頭を走る。世代が変わっても誘惑するだけの要素をまんべんなく備えた食べ物だからだ。値段も安く、誰でも手軽に買って食べられるというのも一役買った。

このような辛いトッポッキはいつから食べるようになったのだろうか

少し前に、米国のケリー国務長官が通仁市場でキルム(油)トッポッキを買って食べる現場が公開され、そのトッポッキがリアルタイム検索語に上がった。キルム(油)トッポッキは大勢の辛いトッポッキの元祖格とよばれる。醤油と油を入れて「炒めた」食べ物だ。ここで、炒めたとう食べ物の起源が見られる。今日のトッポッキは炒めたというよりは、ただ混ぜ合わせて沸かして煮た食べ物だ。「トッポッキ」という名前自体が伝統料理法で炒める過程を意味する。炒めたというのは高級料理だったという意味にもなる。油がとにかく高くて貴重な時代に、餅を誰もが炒めて食べることはできなかった。その背景には、餅が残り、炒めて食べられるほどに暮らしが豊かでなければ不可能な料理法だという意味も込められている。

韓国宮廷料理界の元祖であるファン・ヘソン先生が書いた「韓国の料理」は、合計4冊になっているが、「宮中料理」が別途の冊子で括られている。驚くことにトッポッキはこの本に入っている。私たちがよく書く宮中トッポッキという言葉も出ない。ただ、トッポッキだ。材料も華やかだ。白米の餅にしいたけ・牛肉・ごま油が入る。最近のようなトッポッキに比べ、原価だけで10倍以上出る高級料理だ。ファン先生はすでに、その時代流行していた珍しい辛いトッポッキ文化が気に食わなかったようだ。彼女は特別にレシピの横にこのような言葉をつけていた。「トッポッキはコチュジャンを入れて辛くするのではなく、各色の野菜を餅と一緒に沿えて食べる料理だ」

トッポッキは「承政院日記」にも登場する由緒深い食べ物だ。トッポッキを餅炙と記録しており、英祖の母の淑嬪、崔氏がこの食べ物を好んだという内容を載せている。

「雑仕女出身で粛宗の恩寵を授かり、英祖を産んだ宮女なので、某放送局のドラマに出ていたトンイがその主人公だ」(「たい焼きにも族譜がある」ユン・ドンノ著)

1950年代以降、小麦粉の援助を受けてトッポッキが登場する前まで、この食べ物は依然として高級でしかなかった。1936年1月11日付の東亜日報にはトッポッキ料理法が出る。ファン・ヘソン先生の宮中料理とレシピがほぼ同じだ。1974年1月17日、同じ新聞には正月の料理としてトッポッキを紹介しているが、依然として牛肉ときのこを使う高級品だ。ゆえに、辛い小麦粉トッポッキが大衆化され始めた1970年代中盤でも、依然として「料理らしいトッポッキ」は牛肉とごま油のような高級材料を使うものだったという意味だ。

このように、宮廷で食べていた料理が両班の家々に広がっていき、これが、その後の解放以降、辛い食べ物熱風が吹きながら大衆化されたとみればよい。ウィキペディア百科は、このように現在のトッポッキを紹介する。

「韓国戦争直後に開発された食べ物だ。1953年、マ・ボンニム(1921~2011年)が光化門の外の溝川を覆蓋したソウル新堂洞の空き地で、屋台食堂の食べ物として売っていたことから始まった」

マお婆さんは、まさにコチュジャン広告に出ながら名前を知らせたあのお婆さんだ。「嫁にも教えない秘法」のことだ。マお婆さんが発明したのか、そうでなければすでに全国的に流行に乗りながら自然と広がっていったのか分からないが、様々な条件が現代のトッポッキを誕生させた。

まず、米国の小麦粉供給だ。米国は資本主義勢力の橋頭保になった韓国に惜しみなく援助物資をほどいた。韓国戦争は貴重だった小麦粉が一般的になった時期だった。朝鮮時代には小麦粉は両班と富者の特別な食べ物に使われた。韓半島が小麦粉栽培に容易でなかったからだ。

米国の改良された小麦粉はものすごい勢いで韓半島に押し寄せてきた。すいとん・素麺が庶民の食べ物になった時期でもある。このような低価小麦粉の登場は、餅は米だという等式を崩した。トッポッキには当然、米の餅が入るべきだという古い料理法を取り崩したということだ。

今も覚えているが、1970年代に市場で売る小麦粉の餅はとても安かった。それを買って家でトッポッキにして食べると、ほとんど無料に近い値段だった。市場の中でそのような餅をつくる工場が2か所以上あったほどだった。

コチュジャンの普及も一役買った。小麦粉の餅は臭いがして粘りが劣り、宮中式に醤油と肉で炒めると味が落ちる。むしろ、安い工場コチュジャンに混ぜてこその味だ。醤油・コチュジャン・味噌を買って食べる風潮が始まった1960年代以降、家ごとにビニール袋に入った甘いコチュジャンを食べた。値段も安く、甘い味が口に合った。

安い小麦粉で漬ける工場コチュジャンは市場を掌握していき、通りのトッポッキにエネルギーを供給した。私たちの思い出の中に永遠に残っている辛いトッポッキは、このように国際政治史の片側からはみ出した食べ物だった。ヤルタ会談による南北分断、そして韓国戦争、米国の援助で繋がるこの土地の政治的な流れが生んだ食べ物だというわけだ。
  • 毎経エコノミー_パク・チャンイル
  • 入力 2014-05-19 12:00:00




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