[シリーズ②/④] ユ・スンホ作家、文字たちのがやがや山水画

作品=shooo129.6×72.3cm、india ink on paper、1999~2000 

  • ▲shooo129.6×72.3cm、india ink on paper、1999~2000


楽しい世界を作るちくちくとする悲しみ

作品の中のゴマ粒のような文字を見て吐き出す一言、嘆声が最初の感覚ならばその次に感じるのはなぜか分からないちくちくとした悲しみだ。細く軽い文字体のせいだろうか?文字たちはすぐに生きて動いて消えてしまいそうだ。文字。これは表現であり実体がないから。本当の山でもなく、本当の木でもなければ、本当の水でもないから…私たちの考えを反映した言語で成り立つ代替物だから。ともすれば彼が感じる世界はこんなに軽く悲しく即物的であり、瞬間的で儚いのだろうか?

遠くでは真摯に見える山水画が近くで見ればとんでもない文字で成り立っていて笑いが出ても、それとなく鋭いブラックコメディーのような暗示を発見してどきっともする。

ユ・スンホ作家の作品がただ溌剌であるばかりではなかった理由は数多くの文字を繊細に描く過程が快楽よりも苦痛により近いせいではないか。絵を見ると侮れない重みが相対的に均衡を成している。

作品を前にして誰もがこのむちゃくちゃな労働の量を知らないふりはできないだろう。さらに元来画家という職業は作業室で一人で人生をかけて誰も確信できない時間と対面しなければいけない職業だ。直接経験する前はこの葛藤の重さを想像することは容易ではない。アーティストがやりたいように生きて喜びや楽しい人生だという先入観は経験したことのない者たちの誤解だ。作業中の苦痛をどうやって耐えるのか、彼は答えた。

「うるさいほどに大きな音楽を聞きます。エレクトリックやラウンジ音楽のような。私が空白状態であることを耐えられないようです」

「空白」分と分の間の隙間。想念と想念との間の空間。不安感と虚無感との間の余白

しかし作家が苦しいという「空白」が実は彼と離すことが難しい属性ではないかと思う。ユ・スンホの文字たちはほろりと落ちる軽さを持ち、一つに固まって見えもするが本来、一文字一文字自ら完結された意味を持つ存在だからだ。

文字山水画以降、昨年の展示から見える彼の作品に見慣れた墨文字の変わりに点が登場した。丸い点は互いにつながって謎かけのような形状や文字を成している。よく見ると私たちがよく知っている常套的なイメージが簡単に目についたりもし、見えないと思ったら「へへ、驚いただろ」という感覚でいきなり飛び出したりもする。

点は線よりも寂しい。閉曲線をしっかりと描いた円はそれぞれ独立した完成度を持つ。むしろ文字よりも存在感がしっかりしている。点と点の間は一定だったり意図的にそっと離れている。点と点、文字と文字の間の「空間」が魅力的な緊張感を形成する。ピアノの音と音の間にメロディーが存在するような話だ。だから作家が材料に使用している文字と点は展示場の壁や他の空間に書いたりもする。例えばえんえんと泣く文字はみすぼらしい壁に描かれる。だからさらに悲しみを感じる。蝿が「ええええええ~ん」という字の形で飛んでいたがぱたっと死んだ姿は蝿叩きと共に展示される。

[シリーズ①/④]ユ・スンホ作家、文字たちのがやがや山水画_bzzz200×157cm、ink on paper、2007
[シリーズ②/④]ユ・スンホ作家、文字たちのがやがや山水画_shooo129.6×72.3cm、india ink on paper、1999~2000
[シリーズ③/④]ユ・スンホ作家、文字たちのがやがや山水画_私たち、ぱっと会いましょう122×122cm、acrylic on aluminum、2010
[シリーズ④/④]ユ・スンホ作家、文字たちのがやがや山水画_アイデアスケッチの一部(コンセプトシート)作家ユ・スンホとは、
  • Luxmen_バクボミ(アートコラムニスト·ボムボム代表)
  • 入力 2012-04-26 00:00:00