新羅時代の「金銅製沓」1500年ぶりに陽を浴びる


  • 慶州市の「皇南洞(ふぁんなむどん)120-2号墳」の精密発掘調査で出土した新羅時代の「金銅製沓」。5~6世紀に作られたと推定される。現在は強化処理の後で現場保存中だ。



死んだ者の魂魄は去ったが痕跡は永遠だ。亡者の「金銅製沓」が泥の中で1000年の歳月を乗り越えて、とうとう再び顔をあらわした。 5世紀末~6世紀初めに製作されたものと推定されている新羅時代の「飾履(金銅製沓)」が泥の中から出土した。 T字形状の柄と金銅装飾と推定されるが、新羅時代の遺物の中の最高級品だ。

文化財庁と新羅文化遺産研究院は27日、慶州市の新羅王京の重要遺跡復元・整備事業の一環として2018年から進めてきた「慶州皇南洞120号墳」精密発掘調査で、金銅製沓などのさまざまな遺物があふれ出たと明らかにした。この日の午前の発掘現場におけるメディア会見で、新羅文化遺産研究院のキム・グォンイル調査研究チーム長は、「皇南洞120号墳の発掘現場で飾履一足の存在を確認した。1977年の慶州市仁旺洞(いんわんどん)古墳群の調査以来で43年ぶりのことだ」と興奮を隠せなかった。現世に姿を現した新羅時代の飾履(シンニ/しょくり)では13番目だ。

「皇南洞120号墳」の研究史は、日本の植民地時代にさかのぼる。日本は植民地期に慶州の主なポンブン(封墳)に1番から155番までの番号を付けた。解放後の調査で「120号墳」の周辺にはすでに民家が建っており、墳墓は毀損された状態だった。 1956年に撮影され慶州一帯の衛星写真を見ても、あずま家3棟が発見されたりもした。 1970年代の慶州内の大規模な文化財現場発掘調査の対象には主要ま発掘が行われなかったし、2010年代に入って皇南洞120号墳が主要な調査対象として浮上した。

  • 「皇南洞120-2号墳墓」から出土した各種金銅装飾。 [キム・ユテ記者]



飾履が発見された正確な日時は今月の5月15日で、場所は120号墳の南側に後築された「120-2号墳」だった。皇南洞120号墳はすぐ隣に120-1号墳(北)と120-2号墳(南)の2つの独立した封墳がある。血縁関係だと推定される。キム・グォンイル調査研究チーム長は「陥没した上部積石を除去したところ、内側に石壇が確認された。金銅製の靴と冠飾と推定される金銅製の装飾や帯の装飾などを考慮すると、王を除く最上級者の墓と推定される」と判断した。

飾履の表面には新羅時代の副葬品であることを意味する「T」字模様が彫られた状態だ。 100ウォン硬貨の形の「瓔珞(ようらく)」も飾履の周辺に多く発見された。新羅文化遺産研究院がこの日の記者会見で言及したシム・ヒョンチョル教授の釜山大学博士論文『新羅積石木棺墓研究』を参照し、管式や冠帽がひとつところで同時に発見されたことを考慮すれば、120-2号墳の出土遺物は、総6段階の積石木棺墓の出土着装遺物の位階のうちで最上の等級である1級の地位を得ている。王ではないだけで、最上階の貴族の墓という話だ。

皇南洞120号墳の場合、石を積んだ墓である積石木棺墓に真砂土が一緒に使用された点も注目を集めている。石の山で埋葬部を覆ってその上に砂をかぶせたという話だが、慶州一帯では初めて確認された。

1000年以上の歳月に忘れられて民家が封墳に建っていたからなのか、土を払った場所の石の一部は黒く焼けていた。キム調査研究チーム長は、「その黒い跡はオンドルの痕跡」だと説明した。調査団が設置した砂袋を慎重に踏むたびに、すぐにでも割れたり砕けそうな遺物が封墳の内外にころがっていた。現在、飾履は強化処理されて上部のみを露出さ状態で、記者団にのみしばらく公開された。

新羅文化遺産研究院のチュ・ジンオク保存研究チーム長は、「飾履は金属遺物であり、空気にさらされるとすぐさま酸化が始まる。現在は副葬品の遺物だけを取り出し、飾履は腐食を防ぐために硬化処理をまず施した」とし、「遺物の状態を綿密に見て、本格的に発掘を開始する計画だ」と明らかにした。 120-2号墳の金銅製馬具の装飾や馬銜などの鉄器遺物はすでに封墳の外に出された状態だ。

亡者の金銅製沓は、実際に彼が身に着けていた靴ではない。死んだ者を葬送する儀礼用として製作されたものと推定される。慶州の皇南大塚でも今回の飾履と同様の金銅製沓が出土したことがある。皇南洞120号墳に埋葬され被葬者の地位がかなり高かったであろうと推定される部分だ。
  • 毎日経済_慶州=キム・ユテ記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2020-05-27 17:08:33