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映画「折れた矢」石弓教授役をつとめた俳優アン・ソンギ

妥協のない原則論者キム教授役が興味深い。社会的メッセージ込めるのは監督の役割でしょう 

  • 映画「折れた矢」石弓教授役をつとめた俳優アン・ソンギ
アン・ソンギが主演を引き受けた映画が久しぶりに劇場に掲げられた。純製作費5億ウォンの超低予算映画「折れた矢」だ。映画は「石弓教授事件」を扱う。大学入試問題の誤りを指摘した後、再任用されなかった教授が学校を相手にした訴訟で敗訴した後、担当判事を石弓で威嚇した事件だ。映画はキム・ギョンホ教授の視角から司法部を痛烈に批判する。

アン・ソンギは石弓事件の当事者キム教授役をつとめた。それもノーギャランティで出演した。どんな役を引き受けてもやわらかく変わるアン・ソンギが、キム教授役にそれほどまでに積極的に参与した理由は何だろうか。もしかすると彼も「憤怒の時代」に加わったのではないだろうか。

彼が演じたキム・ギョンホ教授は、「私は保守だが人々が私のことを馬鹿だというので、私は馬鹿な保守」だと言った。映画は、キム教授を法を守る保守として、司法部は既得権を守る保守として描く。キム教授は、「法を守らない判事を法で打ち砕くもの」だという。しかし、アン・ソンギ自身は中道だといつも強調した。「(その台詞は)いい台詞だと思う。弁護士も法をゴミだというが、拘束された教授が法は美しいという。このようなアイロニーがいったいどこにあるだろうか」

民主統合党の最高委員になったムン・ソングンは、この映画で政治的に正反対で、極端に保守性向にある判事として出演する。「出演分量は短いが、私が見たムン・ソングンの演技の中で最高だった。惜しい俳優なだけに、よい政治家になってくれたらと思う」

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  • 映画「折れた矢」ポスター

今回の映画を演出したチョン・ジヨン監督は、アン・ソンギとは「南部軍」と「ホワイト・バッジ」で息を合わせたことがある。「どちらも当時としては危険な映画だった。チョン監督は、人が嫌う内容に果敢に挑戦する作品が多い。そうかといって暴露をするだけでむやみに撮るのではなく、映画的に完成度のある作品を撮る」

「折れた矢」は、チョン監督が13年ぶりにメガホンをとった作品だ。「本来は無名俳優ですべてキャスティングされていたが、最後にある人がチョン監督に私に連絡してみろといったという。シナリオを見てすぐに翌日"ひきうける"と電話をした。このため、他の配役もすべて既成俳優に変わった」

彼は今回の映画にノーギャランティで出演した。「ギャランティをきちんともらって演技するのがプロの姿勢ではあるが(笑う)、最初は知らなかったが気が付いてはいた。"フェアラブ"(2009)の経験があったから。低予算映画なので、もしくれると言っても少ししかくれないだろうと考えた。ストーリーが大きな投資会社がするには負担があるだろう」

いざ蓋を開けてみると、反応はこのうえなく熱い。封切り8日後に100万人の観客を越え、今週末には内心150万人突破も狙う。「トガニ」熱風を再現する兆しだ。

「主題だけあるとすれば"トガニ"の亜流として片付けられるかもしれず、チョン監督の素晴らしいカムバックも成し遂げられないだろう。しかし、映画的にもよくつくられた。興業がうまくいくと喜ぶだけの映画ではない。懸命な判事·検事はつらいだろう。ただし、教授側が弱者なので一度こちら側の視角で扱ったものだ」

彼は、社会的メッセージを込めるのは監督の役割にまわした。彼の役割はいつも映画そのものだった。「1980年代には、その時代に扱われない社会的問題をつまみ出す映画をつくらなければと意識した。しかし、1990年代後半から社会が開放的になり、拘泥を受けなくなった。主題が敏感であるとか、そういうことは二番目の問題だ。一番目はシナリオと人物が映画それ自体から見ても良いのかということだ」

還暦だというのだから、彼も年をとったものだ。しかし、ジーンズ姿でソウル忠武路の毎日経済メディアセンターを訪れた彼は、いつものように若い。10代の女性アイドル歌手たちも、理想のタイプとして挙げることを躊躇しない国民俳優、アン・ソンギ(60)だ。

「ペースメーカー」でともに息を合わせた1990年生まれの俳優コ・アラを、一日前にインタビューした。コ・アラは震える声で、「(アン・ソンギ先輩は)存在自体から光が出る」と語った。アン・ソンギは、「後輩が(スキャンダルを避けようと)あまりにも安全に進む」と首を横に振った。

しかし、それほど長い間まんべんなく愛される俳優はいない。すでに演技人生55年目だ。「あまりにも長くなった。しかし演じることが幸せだ。今後も映画を通じて生きていきたい」

法を守らないから問題であり

法は美しいものだ

映画のシーンの台詞に100%共感

極端な保守性向にある判事役

ムン・ソングンの演技の中で最高

監督を信じノーギャランティで出演

6歳でデビューしたがすでに還暦

俳優にとって一順位は撮影現場

映画以外に他の仕事は一切しない


映画人生は偶然に始まった。父親のアン・ファヨン氏が、ソウル大学の同門の友人キム・ギヨン監督が「黄昏列車(1957)に出る子役を探しているというので息子を連れて行った。「断片的な場面だけ思い出す。孤児役をしたが、空腹で台所で食べ物を探しに隠れて割り込んでいく場面だった。かくれんぼのようで面白かった」

彼は、子役時代だけで70編余りに出演した。「撮影が尾が尾を噛んで続いた。記憶はほとんどない。その後大きくなってみると、エンディングクレジットに名前があがったのを見てようやく私が出演した映画だと分かることもあった。映画がたくさん消失して惜しい」

1959年「十代の反抗」で各種演技賞を総なめにした彼は、「天才少年」と呼ばれたりもした。「気分がよかった。しかし、中学校が終わってから子ども役を引き受けるのをやめようと学校に行った。撮影場では偏狭な姿が多いと目上の人たちが心配したが、学校では普通の子どもたちよりおとなしかった」

チョー・ヨンピルとは中学校(ソウルキョンドン中学校)同窓だ。「同じクラスという程度ではなく、毎日互いの家に遊びに行くほどよく知った間柄だった。私の年頃の子どもたちはギターを習いもしたが、ヨンピルもそんな友人のうちの一人だった。ギターが上手いと賞賛して歌手になったが、動機付与になったかもしれない」

事実、彼が大きくなってからも俳優になろうとしていたわけではない。高校卒業後、彼は韓国外大でベトナム語を専攻した。「(軍で)ベトナム語教育大教務官になろうとROTCに志願した。しかし前線で少尉を掲げているときベトナムが共産化されたせいで、ベトナムで何かをしてみようという夢がすべて砕けた」

「兵士と娘たち」(1977)は、彼の忠武路復帰作だ。1980年代「風吹くよき日」「曼荼羅」「鯨とり」「チルスとマンス」など数多くのヒット作を溢れさせながら、彼は国民俳優の隊列にあがった。

危機はなかったのだろうか。「1980年代までは、してみたい映画が検閲を多く受け残念だった。1990年代初めまでは、社会的に意味がある映画をたくさんしようとした」。「南部軍」(1990)「ホワイト・バッジ」(1992)など、チョン・ジヨン監督とともに作業したのもこの時だ。チョン監督とは、ついこの間封切りした「折れた矢」で再び出会った。

演技には二つのタイプがある。一つは、俳優が映画の中の人物の中に入り込むこと。もう一つは、人物が俳優に入ってくることだ。アン・ソンギは後者に近いという評が多い。どんな役を引き受けてもあたたかくやわらかい人物になる。

「以前は配役に入り込もうとたくさん努力した。序盤に10編程度は互いに完全に異なる人物が多かった。しかし、ずっと演技をしてくると重なる人物が多くなった。今は悪役をしなければという思いはない。悪役ができないからといって俳優として制約を受けるとも考えない」

1990年代後半に入りながら、彼にはまた異なる試練が近づいてきた。若い後輩に主役を与え、彼には助演を引き受けてほしいという要求が多くなったということだ。「最初は当惑して胸が少し痛んだ。それでも今後望むことが演技なら、これもやらなければと決心した。ただし、存在感の大きさには変化がないようにしなければと考えた」

実際にそうだった。2000年代「シルミド」(2003)で1000万人の観客を突破し、「墨攻」(2006)では外国にも進出した。「外国進出はいつでも開かれている。ただし、どのようなストーリーなのかが重要だ。その人物を引き受けることに意味があれば歓迎だ」

彼が見るとき、俳優に最も重要なのは撮影現場だ。「撮影をする時は観客が見えないので、俳優としてはともすれば、今撮っている瞬間が観客と出会う瞬間だということを忘れやすい。しかし、観客は現場で俳優が簡単にしたことは簡単に受け取り、熱心にしたことは熱心に受け取る」

最近も旺盛に活動するアン・ソンギに、長く演技する秘法を尋ねた。「私は映画の外的な仕事においても、映画と関連した仕事をする。映画で死ぬ気で食い下がらなければならない。プロらしく猛烈に徹底して準備し、努力しなければならない。うまくやるより熱心にすることが重要だ」

映画140編余りに出演しながら韓国映画のルネッサンスをともに生きてきた国民俳優アン・ソンギ。スターの出演料問題が出る時は自ら適正水準のみ受けるといい、韓国映画のためのことなら誰よりも先頭に立ってきた彼だ。彼に韓国映画の未来を尋ねた。

「映画がもう少し多様になる必要がある。問題は配給だ。資本論理だけではだめだ。文化的側面を考慮して配給することがよい映画がでる力になる。付加市場の活性化も必要だ。お金をだして映画をダウンロードする"グッドダウンローダー"が多くなってこそ韓国映画がさらに発展するだろう」

■He is・・・

1952年1月1日ソウルで生まれた。ソウルドンアム小学校、キョンドン中学校、ドンソン高校を経て韓国外国語大学ベトナム語課を卒業した。ROTC12期に服務した。映画制作者の父親の影響で満5歳時の1957年にキム・ギヨン監督の映画「黄昏列車」でデビューした。

高校時代、しばらく演技生活を中断した彼は、1977年「兵士と娘たち」でスクリーンに復帰する。子役時代を含めて140編余りの映画に出演しながら国民俳優の座を確固にした。1980年代「曼荼羅」(1981)「鯨とり」(1984)「深く青い夜」(1984)「チルスとマンス」(1988)など、数多いヒット作に出演した。1990年代には「南部軍」「ホワイト・バッジ」(1992)「ツー・コップス」(1993)「太白山脈」(1994)など、社会性の濃い映画にも多数出演した。2000年代には「シルミド」(2003)「光州5・18」(2007)「ラジオスター」(2006)などで興業俳優の名声を続けた。
  • 毎日経済_パク・テミン記者/パク・サンソン記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2012-01-27 17:02:48




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