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「ヒディンクの懐」で指導者授業を受けるホン・ミョンボ

チームより偉大な選手はいないから、どんなに実力が優れていてもチームワークを損なうなら選ばない 

  • 「ヒディンクの懐」で指導者授業を受けるホン・ミョンボ
永遠のリベロ、2002韓・日ワールドカップの4強神話、2012年ロンドンオリンピック銅メダル・・・。ホン・ミョンボ前オリンピック代表チーム監督(44)の華やかな経歴だ。

誰よりも華やかな経歴を誇るホン前監督だが、彼は決して"口達者"ではない。どのような質問を投げかけても"正解"に近い回答だけなので"もどかしい"という感じまで受ける。

「いつオリンピックのメダルを予感したのか」という質問には、「日本戦(銅メダル決定戦)で勝ったとき」と答えた。「チェ・カンフィ監督の後任として国家代表チームを任される考えはあったのか」と問うと、「(そのような質問に答えることは)チェ監督に対する礼儀が無い」と答えた。言い換えれば、ホン前監督は言葉一つの重みがどれだけ重いのかを誰よりもよく知っている監督だ。そのため選手たちはホン前監督の一言に絶対的な信頼を見せており、これは自然にカリスマとリーダーシップにつながる。

日本との銅メダル決定戦を控えて、ホン前監督の「倒してしまえ」の一言に選手たちはためらいなくグラウンドに出た。「私がかわりに軍隊に行く」という一言に、パク・ジュヨン(27 セルタビゴ)はプレッシャーを振り払って猛活躍した。

言葉一言の意味を誰よりもよく知っているため、より信頼を与えるホン前監督に、去る7日、漢南洞グランドハイアットホテルで出会った。この日ペルノ・リカール・コリアのロイヤルサルートからスポーツスター初の"マークオブリスペクト"受賞者として選定されたホン前監督は授賞式で「賞金5000万ウォン全額を幼少年サッカーのために寄付する」とし、韓国サッカーに対する愛情を改めて表した。

国内でもつ最後のインタビューで、ホン前監督は、「今年は2014年ブラジルワールドカップ本戦進出を確定する"サッカーの年"になるだろう」とし、「ファンたちがより多くの関心を見せるとき、選手たちがより力を出すことができる」と頼んだ。

ホン前監督は韓国サッカーの象徴だ。選手時代には主将を務め、2002年韓・日ワールドカップで4強神話を立てた。準々決勝のスペインとのPK戦で、最後のキッカーとして出て成功させて明るく笑うとき、国民は冷たい表情の中に隠された"人間"ホン・ミョンボの真骨頂を見ることができた。昨年のロンドンオリンピックでは監督を務め、韓国サッカーに史上初のオリンピックメダルをもたらした。ホン前監督は「2002年メンバーたちには申し訳ない話だが、ロンドンオリンピック銅メダルがより記憶にのこっている」とし、「私だけを信じて3年6ヶ月の間つらい時間を過ごした選手たちが目標を一緒に成したから」だと語った。

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  • ホン・ミョンボが毎日経済へ贈ったサイン色紙

それならば、ロンドンオリンピック銅メダルが韓国サッカーに残したものはなんだろうか。意外にもホン前監督は、自信感ではない"蓄積されたマニュアル"をあげた。ホン前監督は2009年3月、20歳以下の青少年代表チームの監督を務めながら、オリンピック代表チームのメンバーたちと呼吸を合わせた。その年の10月、オリンピック代表チームの監督に就任したホン前監督は、昨年8月まで3年6ヶ月の間代表チームを引っ張った。

韓国で成人代表チームを含めても、一人の監督がこんなに長い期間代表チームの監督を務めることは珍しいことではない。よほどのことがなければ、韓国代表チームの監督の座をもって海外のメディアが"毒の入った聖杯(※1)"という表現を使わないだろう。

韓国サッカーの歴史上、類を見ないほど代表チームに"オールイン"したという評価を聞く"ヒディンク号"もやはり1年6ヶ月(2001年1月1日~2002年6月30日)だけだった。

ホン前監督は、「3年6ヶ月の間何人かの選手たちが代表チームを経て行き、数多くの国際大会のトーナメント、親善試合を行った」とし、「おかげで短期間の成績に執着せず、多様な状況でどう対処しなければならないのか"マニュアル"を残すことができた」と語った。彼は「ひとりの監督がこんなに長い期間努めることは"冒険"に近い」とし、「このような冒険が成功したおかげで、代表チームが成功するためにはどんな道を歩まなければならないかについて定立することができた」と付け加えた。

ロンドンオリンピック代表チームのメンバーには、このような"冒険"の受恵者がひとりいる。"独島セレモニー"の主人公パク・ジョンウ(24 釜山アイパーク)だ。

ホン前監督は代表チームの監督を務めた後、2009年の20歳以下青少年ワールドカップ、2010年広州アジア競技大会、2012年ロンドンオリンピックを行った。広州アジア競技大会まで、パク・ジョンウは代表チーム予備名簿には常に名前があがっていたが、"ホン・ミョンボ号"と最後まで共にできなかった。パク・ジョンウは「監督がよく変わっていたならロンドンオリンピックにも出れなかっただろう」とし、「長い期間忘れず、呼んでくださった監督に感謝します」と明かしたことがある。これにホン前監督は「感謝する必要がない」ときっぱりと言い切った。チームに役立つ選手だから選んだだけだということだ。

ホン前監督はどのような決定を下すとき、いつでもチームを最優先に思っている。これは選手時代から続くホン前監督の信念だ。

多くのサッカーファンはホン前監督を"スター選手"として記憶するが、彼にも暗かった時代があった。中・高等学校時代は小柄な体格のせいで候補選手だったホン前監督は、「当時"もみ合い"ができないからサッカーをやめろ"という言葉を聞くようで、いつも胸が締め付けられベンチを守っていた」と当時を振り返った。ホン前監督は、「ファンたちが"永遠のリベロ"と呼んでくださったが、実は攻撃手としてサッカーを始めた」とし、「しかしポジションがずっと変わりながら、守備手として出た程度で攻撃手に適応できなかった」と付け加えた。競技に出れない悲しみを誰よりもよく知っているので、ホン前監督はつねにベンチに座っている選手たちの目を見守っている。ホン前監督は、「"チームより偉大な選手はいない"というのが所信だ」とし、「チームワークを損なうなら、クリスティアーノ・ロナウドも選ばない」と語った。

ホン前監督は2003年から2年間、LAギャラクシーのユニフォームを着て米国の舞台に出た。韓国と日本に続き、ホン前監督には3回目のリーグだ。ホン前監督は「ヨーロッパの舞台を踏む機会が無かったわけではないが、クラブの事情で進出できなかった」とし、「しかし米国では多くのことを学んだおかげで、心残りはない」と語った。

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ホン前監督が米国で学んだことは、サッカー選手たちの積極的な社会活動だ。ホン前監督は「当時米国選手たちは競技が終われば疲れていても老人福祉活動に参加するなど、地域社会と強い関係を維持した」とし、「地域社会への強い愛着を持っているという点に感銘を受けた」と説明した。このようにサッカー選手たちが社会活動に積極的に出るとき、国民にもっと密接に近づくと同時にサッカーの人気を高めることができるという話だ。

ホン前監督は、米国進出以前の1997年から社団法人ホン・ミョンボ奨学会を設立し、幼少年サッカーの有望株たちを支援した。当時ホン前監督がJリーグベルマーレ平塚にチームを移しながら受け取った移籍金5000万円(当時約5億5000万ウォン)全額を出捐したほどで、強い熱意をみせた。有望株支援事業に乗り出す契機で、ホン前監督は「サッカーで受けた愛をサッカーに返したかったため」と説明した。しかし米国で選手生活をしながらこのような考えが少し変わったという。

単純に幼少年サッカー支援にとどまらず、積極的に社会活動に乗り出せば、サッカーが国民からより多くの愛を受けることができるというのがホン前監督の考えだ。2004年ホン・ミョンボ奨学財団に名前を変えたホン・ミョンボ奨学会は幼少年選手たちに奨学金を与える水準にとどまらず、積極的な社会貢献活動に乗り出した。

2003年2月、大邱地下鉄放火事件と、その年3月の天安小学校のサッカー部合宿所火災事件のときは、遺族たちにそれぞれ義捐金500万ウォン、200万ウォンを寄託した。今年で10回目を迎える"ホン・ミョンボ慈善サッカー大会"には毎年サッカースターたちと疎外階層の子供たちが一緒にサッカーボールを蹴って汗を流す。

今ホン前監督は新しい挑戦に乗り出す。彼は恩師のフース・ヒディンク監督(67-アンジ・マハチカラ)の懐で体系的な指導者授業を受けるため、10日アンジが転地訓練をしているアラブ首長国連邦(UAE)に出国した。ホン前監督はUAEで転地訓練を終えた後、来月の14日ハノーファー96(ドイツ)との1回戦から本格的にチームに同行する。彼は「選手と同じように指導者もやはりヨーロッパに行ける機会は多くない」とし、「より良い指導者として帰ってこれるという確信のおかげでヨーロッパ研修を選んだ」と説明した。

ホン前監督は「アンジ・マハチカラと正式な契約を結んではいないが、訓練・ミーティングなど準備過程と競技にすべて参加することができ、実質的にはコーチ陣のひとりになるわけだ」と説明した。

ヒディンク監督は来る5月アンジの監督から退く。ホン前監督のロシア生活もこのとき終わる可能性が高い。研修を終える時期が2014年ブラジルワールドカップの最終予選終了時期の6月と重なり、"ホン・ミョンボ次期監督説"に重みが載せられている。

これについてホン前監督の考えは終始一貫している。代表監督として取り上げられることが負担で、チェ監督にも失礼だということだ。

ホン前監督は、「帰国時期のせいで誤解が生まれないかと考えもした」とし、「しかしヨーロッパサッカーを学ぶ最初で最後の機会を逃したくなかった」という"正解"と共にヒディンク監督との再会のために出国した。

■ 柔らかいカリスマに"駆け引き"固守

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「それならば、キ・ソンヨンを抜いて大会に出るしかない」

2010年広州アジア競技大会を控えて、スコットランドのセルティックでプレーするキ・ソンヨン(24-スウォンジー・シティ)は、ホン・ミョンボ監督から"青天の霹靂"のような声を聞いた。アジア競技大会の招集拒否にでたクラブを説得し「韓国がアジア競技大会の組別予選を通過し、決勝ラウンドに進出するなら広州に行ってもいい」という肯定的な回答を取り付けはしたが、ホン前監督の反応があまり気乗りしていなかったからだ。

これはホン前監督が繰り広げた"高度な心理戦"だ。ホン前監督は当時の状況について「キ・ソンヨンは成人代表にも選出されて実力を認められた」とし、「しかし緩んだ心持ちでアジア競技大会やオリンピックを準備すれば、他の選手たちに悪影響を及ぼすことがあるので緊張感を植えつけたかった」と説明した。

そうかといって、ホン前監督は常に緊張感だけを植えつけるわけではない。ロンドンオリンピックで英国との準々決勝で爆発したチ・ドンウォンの先制ゴールは、"心理戦の鬼才"ホン前監督の姿をそのまま見せてくれる。

英国戦を目前にして、当時のコーチング・スタッフは攻撃手について悩んでいた。ほとんどの攻撃手たちの体力が落ちていたり、コンディションがよくなかったからだ。コーチたちの話を聞いたホン前監督が取り出した"カード"はチ・ドンウォン(22-アウクスブルク)。これにすべてのコーチたちがびっくり驚いた。チ・ドンウォンはプレミアリーグ1年の生活のあいだ19試合に出場、それも17試合が途中交代に終わり、試合感覚が落ちている状態だったからだ。しかしホン前監督はこのような部分を狙った。彼は「チ・ドンウォンがイングランドのベンチで受けた悲しみを、イングランドを相手に解きほぐすことを願った」とし、「試合を目前にしてドンウォンを呼びイングランド生活がどうだったか尋ねたとき目に火花が弾けるのを見て、心の中で"いける"と思った」と語った。

英国戦でチ・ドンウォンは先制ゴールを爆発させ、英国ファンたちの前で確実な腹いせをすると同時にホン前監督に報いた。

■He is・・・

1969年2月12日ソウルで誕生 /広場小-光熙中-東北高-高麗大 /1990ダイナスティカップ国家代表 /1990・1994・1998・2002ワールドカップ国家代表 /1992Kリーグ浦項製鉄アトムズ /1994~1995、1997~1999世界オールスター出場 /1997~1998Jリーグベルマーレ平塚 /1999~2002Jリーグ柏レイソルズ /2002Kリーグ浦項スティラーズ選手 /2003~2004MLS LAギャラクシー /2006ドイツワールドカップコーチ/2009.10ロンドンオリンピック監督 /2010広州アジア競技大会監督 /2013.1平昌スペシャルオリンピック広報大使 /2012ロンドンオリンピック銅メダル
  • 毎日経済_チャン・ソグァン記者 / 写真=イ・チョンウ記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2013-01-11 17:02:44




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