Q.「次から次へと続く話」に出てくる実尾島事件について教えてください(中)

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A. 実尾島(シルミド)へ先に行った兵士たちは、北派工作員を訓練させる教官と基幹兵(軍隊で中心となる兵士)たちでした。40人用のテントを一つ張っておいて部隊創設の準備を始めました。

TNTで爆破した岩盤で質の良い水源地を探し出し前兆は良かったです。

数週間後、武装した教官と基幹兵が待っている中、31名の訓練兵が船から飛び降りました。彼らを待っていたのは文字通り「地獄訓練」でした。

青瓦台(チョンワデ、大統領府)への浸透を狙ったキム・シンジョ一行より一段階上のレベルが要求されました。北朝鮮の工作員が1キロを数分以内に突破したとすれば、1~2分だけでも短縮しなければなりませんでした。駆け足、遊撃、行軍の度に決まった時間になると機関銃が容赦なく火を噴きました。実際、遅れた訓練兵がわき腹に銃弾を受けたりもしました。

訓練兵は鋼鉄のような体力をつけるほか、浸透、射撃、格闘などの殺傷訓練を受けました。6メートルほど離れた距離からナイフで的を突き破り、走りながら30メートルの距離の移動標的に当てるのは基本でした。水に放り投げておいて3~4時間は耐えさせました。綱渡り渡河訓練中、2人が転落して死亡したこともありました。

訓練の成果があまり出ない訓練兵は「最初から除去した方がいい」と言って水中に入れて踏んだりもしました。10分たった後も息をしていると、砂浜に埋めたのに翌朝晩までに死ななかったため、ようやく一命をとりとめた例もあります。

度胸を鍛えるために島の中国船員のお墓を掘り返して骸骨の水を飲ませました。証言によっては訓練兵の性病治療、または工作員間での伝染病を治療する民間療法だったそうです。お墓から出てきた中国人乗組員の骸骨が舞台標識となりました。

訓練中に7人が命を落とすほどのハードな訓練で31人の殺人兵器が誕生しました。

「あいつらは走るのも飛び回るようにします」
「山頂から一度飛び跳ねると4~5メートルは飛ぶようです。遠くから見ても怖いと思うほどです」

準備は整えましたが北朝鮮に行けという命令は下されませんでした。しばらくは、いきなり命令が下されるかもしれないので張り詰めた緊張感が続いていましたが、1年が経つにつれ雰囲気が変わりました。そして献立も変わりました。

訓練初期に、米飯に牛肉、鶏肉で豊かだった献立が、麦飯にたくあんに、タバコはパゴダからファランに質が低くなりました。

「彼らはとてもお腹が空いていました。秋には通り過ぎる途中でサツマイモや大根のようなものを掘って食べたりしました。 それがバレると踏みつけられてしまいます」(舞衣島(ムイド)の住民)

このような状況でも練習は続きました。殺人兵器の機能を維持するための訓練です。

基幹兵も同じく、ずさんな献立、恐ろしい環境で過ごしましたが、彼らには除隊すれば家に帰るという希望がありました。しかし、北に派遣される予定だった訓練兵には、そのような希望すらなかったのです。支給されない給料、完全に遮断された書信交換、外出外泊禁止、彼らは囚人同様でした。

訓練兵が基幹兵を殺し実尾島を脱出する前の兆しがありました。

訓練兵3人が近くの舞衣島の小学校の宿直室に乱入し村の娘2人を強姦しました。実尾島の基幹兵が逮捕作戦を展開すると、彼らは村人20人余りを人質に取って対峙しましたが、すぐに抵抗を止めて自ら命を絶ちました。訓練兵1人が同僚2人をナイフで刺し殺し自分も首を切って自殺を図りました。基幹兵たちは息がついていた彼を連れてきて拳銃で射殺したそうです。

この事件は、しばらく後に起こる惨劇の予告編だったのです。

若い男たちに積もる性欲を解決してあげるため団体で仁川(インチョン)の風俗店に連れて行ったりしましたが、あくまで弥縫策に過ぎませんでした。

北派計画は結局なかったことになってしまい、訓練兵の処理問題だけが懸案でした。

1971年8月23日未明、ついに事が起こりました。実尾島は一瞬にして死の島に変わりました。

訓練兵たちは教育隊長をはじめ12人を射殺し島を抜け出しました。海に逃げて溺れた6人まで合わせると計18人の基幹兵が命を失いました。事件当時、島にいなかったキム・バンイル中士をはじめ6人の基幹兵だけが命拾いをしました。

「隅々まで探せば皆殺すことができますが、私たちとは悪感情がなかったため6人も生存したようです」(生存した基幹兵)

近くの舞衣島で船を手に入れた訓練兵たちは、仁川南側のドクベブリ海岸に上陸した後、松島駅(ソンドヨク)三叉路で市内バスを奪取しました。連絡を受けて待機していた24人の陸軍が仁川のオクリョン峠の前で阻止しましたが、このような行動は不可抗力でした。

乗っていたバスの後輪がパンクしたため朱安洞(チュアンドン)で反対方向から向かってきたバスを奪取して乗り換えました。ソウル市の大方洞(テバンドン)で阻止され自爆する前、彼らを阻止する軍部隊はありませんでした。

バイクに乗ってバスを阻止しようとした警察、拳銃を持って阻止しようとした警察が犠牲になっただけです。バスの運転手が脱出するのを放っておいた訓練兵は直接バスを運転し死に向かって突進しました。

大方洞で軍としばらく交戦し手りゅう弾を爆発させて命を絶ちました。振り返ってみると、彼らは殺しに行ったのではなく死ぬためにソウルへ行ったのです。

「どうせ死ぬくらいならという思いで彼らが立ち上がったのだ。誰かを殺しに来たのではなく北朝鮮に送るか、私たちを殺してでも解決してほしいと思って来たんだ」

これはアナグマ部隊創立当時の空軍参謀総長だったチャン・ジリャン(張志良)の言葉です。
  • Lim, Chul
  • 入力 2021-09-23 00:00:00

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