A. | クォン・ボア(權寶雅)、BoA。彼女の母親はピアノを弾いて歌うのが好きな3兄妹が、自分たちがやりたいことを存分にできるように、ソウルの近郊にある、田園村に引っ越しをする。歌手が夢だったBoAは、九里市のデパートで開催されたB-boyコンテストに出た兄について行き特別出演する。その時に、なんと15個の企画会社から名刺を受け取る。その中でもSMエンターテイメントから一番多く電話で連絡があり、ときめく心でオーディションを受ける。 オーディションを受けにSM本社を訪ねたボアはイ・スマン代表の目にとまり、その場で歌を歌い、次の日に電撃契約する。小学校6年生の時のことで、当時ボアの家は借金の保証に誤って立ったため家族全員がバラバラに散らばる程に家の暮らし向きが傾いている状態だった。 練習生になったボアは厳しい訓練を受けた。中学校を首席で入学したがすぐに外国人学校に転校し、そこも中退した。往復で4時間かかる道をバスと電車を乗り継ぎ、15分以上歩いて黙々と通った。 「アジアの星」は、このように一歩ずつ踏み出しながら成し得た名前である。 13歳の少女は、デビューする前からメディアの注目を受けた。イ・スマンがメディアに神秘プロジェクトを準備中で秘密兵器を育てているという言葉を流した時は、H.O.Tの解散説が出回っていた時だった。「オッパを投げ捨ててボアに金を使う」とデビュー初めからアンチファンがぞろぞろ付いて回った。さらに「イ・スマンとボアの関係があやしい」とか「ボアの世話をしない神話やH.O.Tのメンバーをイ・スマンが暴行した」などのデマが相次いで流れた。実際にデビュー前後にはボアと同じ年頃の女の子たちが、自分たちの偶像と一緒にいる姿に嫉妬を感じたのか、血のついたナイフや引き裂かれたクマのぬいぐるみを送ったという。 その当時を覚えているファンは「自殺をしていないのがすごい」と言うほどだ。 ボアは韓国でデビューした後、間もなく活動舞台を日本に移す。日本語を正しく身につけるために学校の休みを利用して一か月間、NHKのアナウンサーの家でホームステイをしたが、この時も成田空港から電車に乗って一人アナウンサーの家を訪ねた。 日本デビュー舞台の成績は芳しくなかった。まず歌が歌えなかった。当時、韓国ではリップシンンクが容認されていた時期でアイドル歌手たちが激しいダンスを踊りながら歌うふりをしたが、日本はライブで歌を歌うので、ダンスに合わせて歌うことが容易でなかった。 1枚目のアルバムを準備する頃には「これが最後」と思ってしまうほどだった。しかし、「Listen to my Heart」がオリコンチャート3位に登り、事情が変わってくる。韓国で検定考試(大検)を準備していたボアは、日本に来いという言葉を聞く。その時から四方から依頼が入り始めた。 日本の反応は熱かった。ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)を見にアメリカに行く必要がないという話が出だほどだ。激しいダンスを踊りながらライブで歌う歌手は日本でもあまりなく、幼い女性歌手の中にはさらに珍しかった。 「Listen to my Heart」が収録されたアルバムは100万枚以上売れ、2枚目のアルバムが日韓両国で1位になりトップクラスの歌手として認定を受け始める。韓国歌手不毛の地と変わらなかった日本歌謡界で10代の少女がやり遂げたのだ。 東方神起のメンバーであるユンホはある番組で「韓国で数万人が集まったコンサートに立った後、日本でわずか数十人の前で歌を歌う時、絶望感を感じたがボアを見て勇気をもらった」と心境を吐露した。 ボアは、仕事だけをし、家では一人でお酒を飲む代表的な干物女(乾魚物女)に選ばれたりもする。日本にいるときは一人で居酒屋に行ってカウンターに座っておじさんと話をしながらお酒を飲むという話も聞こえる。韓国歌謡界で、イ・ヒョリと双璧をなす酒党である。 このようなボアの心境は、16歳のクリスマスに彼女が作詞した曲「Moon&Sunrise」に現れている。 あおいそらはいつもおなじで こどくなふしぎさね かなしみもさびしさもすべて かくしているみたい すれちがうたびにそういつか こんなわたしもまた ひとつのおもいでをこころに きざみこんだみたい プロフィール 本名:クォン・ボア(權寶雅) 生まれ:1986年11月5日、京畿道南楊州市 家族:両親、兄2人 身体:162㎝、45kg、AB型 デビュー:2000年1集アルバム「ID:PEACE B」 宗教:カトリック(洗礼名:キアラ) |