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[モノの哲学] タイル、部分と全体


  • [モノの哲学] タイル、部分と全体
床や壁などの表面を均等にして一貫性のあるコンセプトに、体裁よく覆うために使用される高温で焼いた平板型粘土質のモノをタイル(tile)という。建築物の表面に比較的簡単に貼ることができ、亀裂を起こしたり、粘土の特性上変色することもなく、特に耐久性と耐水性(防水)に優れ、パターンによっては装飾的な効果も優れているため、建築物に広く使用される。

タイルという用語は、ラテン語「tigura(覆う)」に由来している。しかし、このモノは家の歴史と同じくらい古く、広範囲な地域で使用された。エジプトやバビロニアのような文明の発祥地にある宮殿、有名なヒンドゥー教の寺院、イスラム教の寺院、南米の古代アステカの建築物などには、様々なタイルが敷かれている。

タイルは、一枚だけのそのモノ自体では特別な美的特性を十分に発揮しにくいモノだ。モノだったときのタイルは、堅い粘土、正しい四角形の小さな石材で、実用的なモノにより近くなる。さらに、一枚一枚のタイルは、実用的な側面からも無意味だ。ある種の「存在論的ジャンプ」は、タイルが一枚一枚貼られて、一定の系列とパターンを作り始めてから起こる。

ある一貫した構成の中でタイルは「点」から「線」となり、「面」となる。部分は全体となり、個別性は全体の中で一つになる。モザイク作品のような建物の床や壁に付着したタイルは、パターンの中で「事後的」に「自己のアイデンティティ」を獲得することになる。「何」でもなかった焼いた小さな粘土が、全体的なものの中で実感を与えるモノとなる。この時、タイルは、風から、雨から、火から家を守る堅い防御壁となる。さらには、「審美的な」モノにまで変化する。部分的には認識されていなかった視覚的な個別性の意味が、ある流れと文脈を付与する視覚印象の対象に変化したためだ。

ところが、逆に言えば全体の中で「一部」として位置していた一枚のタイルは、いまや全体の立場からも必須なモノとなる。いったんタイルとタイルがぎっしり壁や床を「覆った」後には、たった一枚のタイルが落ちただけでも全体の模様が壊れる。審美的な側面が損なわれることはもちろん、そこに水が染み込み、一枚が剥がれ落ちれば、横に貼られていた他の一枚が連鎖的に剥がれ始め、最終的には床と全体の外壁に隙間が生じたりもする。

だとすると、「全体」を致命的に歪曲することもできる一枚のタイルは、単に「部分」だろうか。モノと人間が構成して暮らす世界で「部分」とは何であり、「全体」とは果たして何なのか質問してみる価値がある。
  • 毎日経済_ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-05-29 16:40:57




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