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[モノの哲学] 古宮-歴史は、過去と現在の対話だ


  • [モノの哲学] 古宮-歴史は、過去と現在の対話だ
「古宮(ゴグン)」というモノがある。王と王の家族が住んでいた宮だ。この「モノ」は、特定な位置と広いエリアを占有していることで、確実な空間性を確保していると同時に、「伝統」と「歴史」の遺物という象徴性のため、非常に強力な時間性を喚起する。

「昔」を意味する「古」の文字は、古宮を構成する外観と適切に呼応する。古色蒼然とした瓦と丹青と端雅な庭と気品のある空間配置は、それ自体で美しく、おぼろげな郷愁を刺激して、その空間を歩く人々に「伝統」と「歴史」に対する自負心を自然に呼び起こす。

しかし、古宮が呼び起こす伝統と歴史の郷愁は、逆説的に宮が持つ真の時間性を揮発させる面が無くはない。一つのモノのように、いつもその場で数百年間、存在してきたという理由だけで「宮」は「古宮」になり、それが持つ真の歴史的な意味を脱色させる。歴史の外観をしているが、今では「昔のもの」になってしまったこのモノは、「歴史は過去と現在との絶え間ない対話」というE・H・カー(Edward Hallett Carr)の有名な命題の代わりに、歴史はただ「過去」であり、伝統は昔の反芻や復元という考えを強いる面がある。市民一般に古宮の古風なデザインをしている公園以上の意味を持っているとすることができるだろうか。

しかし、前近代社会で宮は、最も強力な政治的象徴性を持ったモノだった。滅びた国の宮を崩し、あえてその場に日本の帝国主義者たちが総督府を立てたのも、そのためだ。詩人ソ・ジョンジュのように、景福宮(キョンボックン)を見て「玉のように綺麗な人/その屋根裏に空を集め/住めと言った」(『光化門』)とし、歴史をロマンチック化することもできるが、「クモの巣がかかった玉座の上には、如意珠をおちょくる双龍の代わりに、2匹の鳳鳥を結った」は、チョ・ジフンの嘆きのように、いつも事大主義で一貫した結果、滅びた国の民族的悲哀を、現在の政治的状況と関連付けることができるのも、そのため可能なのだ。

歴史を神秘化・浪漫化すれば、古宮はただの「公園」だ。しかし、歴史の過去を介して、現在と将来の生活を問う生きている対話と省察とすれば、古宮はそれ以上のモノであるだろう。子供を失った親たちが号泣する光化門広場と歴史教科書の国政化を主導しながらも、いつかは「歴史」になる広場の痛哭には、特別な反応を見せない青瓦台(チョンワデ)がある。その2つの空間の間に、景福宮という古宮がある。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-12-18 16:10:48




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