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ブランドのミダース、クロスポイントのソン・ヘウォン代表

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韓国で今日を生きて行く私たちは、誰でも「ソン・ヘウォン」と因縁を結んでいる。彼女が命名した製品やサービスを消費しないわけにいかない。しかし、彼女の頭から出た名前は日常の至る所に染み込み、私たちの記憶の一部を例外なく占めているからだ。飯酒を兼ねた食事を注文する時、通過儀礼の「チョウムチョロム?チャミスル?」という質問は、完全に彼女の命名をもとにしている。

かなりの規模の住居地ごとにひとつの団地を占めている「ヒルステート」アパート・クリネックス・スコッチテープのように一般名詞になってしまったキムチ冷蔵庫「ディムチェ」・町内のスーパーなり大型マートなり、冷蔵食品コーナーごとに座を占めている「チョンガチプ」キムチ・プレミアム家電のコード名である洗濯機「ドラム」とTV「エックスキャンバス」・女性のあの日を魔法に比喩するようになった生理用品「マジックス」・寝具フランチャイズの「イブチャリ」・コーヒー専門店「エンジェル・イン・アス」・ウリ投資証券の「オクト」・タバコの「レジョン」・飲料の「美女はざくろが好き」・「ハヌルポリ」・「コンドゥ」「サランチョ」...このすべてのブランドが一人の人間の産物であるというのが気軽に信じられないほどだ。

  • ブランドのミダース、クロスポイントのソン・ヘウォン代表
彼女の非凡さを世界が注目し始めたのは、「チョウムチョロム」を作名した2006年からだ。チャミスルとチョウムチョロムという焼酎市場の熾烈なライバルが、同一人物に作名を依頼したという事実は、酒の席のしょっぱい話題の種だった。では、「どのようにして?」という質問を投げかける番だ。彼女は一体どうやってこのたくさんのヒットパレードをつくり出したというのだろうか。彼女は2006年にヒットブランド創造のビハインドストーリーをくくり、「ブランドとデザインの力」という本を出したりもした。執念と熱情の記録だったが、創造力の鍵が何なのかはぶすりと指摘してくれなかった。インタビューでない業務上の理由で、一昨年前に彼女に初めて会った時に見つけ出したいことも、彼女の創意性をどうやって育て上げたのかだった。

南山のクロスポイント事務所で名刺を交換するなり、自分がしている作業の哀歓、隣でのそりのそりと歩き回る体の大きい犬ののんびりとした性格、会社の業務環境を説明するのに集中するせいで、実際に自分を尋ねてきた私という存在を忘れたようだった。初対面から大なり小なり一種類の話題をつかむと、決して生返事でやり過ごさず突き詰める熱情が感じられた。

どのようにして話題を変えようかと苦心していると、事務室の真ん中に置かれたとても古い黒色のデスクトップコンピュータに目がいった。商標は「NEXT」だった。スティーブ・ジョブズが1985年にアップルから放逐された後に創業したNEXTという初製品「キューブ」を、骨董品のように所持しているということは、ジョブズマニアだという意味だ。「あれが噂に聞いていたネクストキューブですね」と言うなり、彼女の目がきらりと光った。「どの世代にもジョブズのようなスピリチュアル型の人間がいるでしょう。おそらくソン代表もそんな方なのかもしれませんが」と話頭を変えた。人を主題に話してこそ望む結論に到達できるようだった。人の話もまた一度捕らえはじめると、彼女と親しいムン・ジェイン、キム・ジョンイン氏との逸話から人間関係に対する哲学が溢れ出した。

南山のふもとの小さなプテチゲ屋で昼食をとりながら交わした話の中で、彼女の「ネーミング」が内面からどのような過程を経て発火するのか、おぼろげにではあるが垣間見せてくれる吐露があった。

「私はネーミングをするたびにスキンスキューバダイビングをする気分になります。どんな製品であれ組織であれ、イメージという水面上を浮遊していてはだめで、酸素ボンベを負って水面下に深く入り、深い意味をすくい上げなければならないからです」。「深く入るためには体力と集中力が必要なので、エネルギーを管理するのに常に神経を使っています。人との出会いはそれ自体が相当なエネルギーの消耗で、作業に必要な集中力を枯渇させるため、必ず必要な出会いなのかをいつも考えています」。そんなにまで熱情的で多弁な人が、出会いに慎重だという告白は意外だった。フェイスブックとツイッターに象徴されるSNS時代を生きながら、「関係中毒」もしくは「関係強迫」に陥った世相を示唆するところがあった。

2年ぶりの先週末、今回はインタビューをするために彼女に再び会った。その時、印象深く聞いていたスキンスキューバの話を取り出した。彼女は笑いながらその比喩が適切なのかどうか分からないと言った。ひとつの前提をつけた後に、一段階さらに率直な話を聞かせてくれた。

「まず、私がクリスチャンだということをいいたいです。けれど、私は全ての事物と建物・組織・自然ごとに魂が宿っていると信じます。梨大の総長をされた韓国学中央研究院長にこの間お目にかかりました。南大門の復元が周辺の人物にまたもう一度の悲劇を引き起こしたことは、火災によって憤怒した南大門の魂をなだめられなかったからだというお話をされるのですが、とても心に響きましたね。私はその魂と対話と交わすことができます。彼らが話すことが名前に、デザインに形成されるということです」

焼酎を一杯も飲めないにもかかわらず、チャムナムトン・マルグン焼酎・サン・ファヨなどヒット作を続々と出すことができたのは、焼酎に宿っている多くの事由、喜怒哀楽のストーリーと対話ができたからだということだ。そんな彼女に誰かが依頼してではなく、自ら話しかけてきたまた異なる存在があった。まさに、伝統工芸の螺鈿漆器だった。2006年、慶尚南道の統営市と作業をしていた彼女は、螺鈿漆器の巨匠ソン・バンウン先生の作品を見物していて螺鈿漆器との対話に陥った。

「螺鈿漆器一つ一つが話しかけ始めました。全国至る所の螺鈿漆器食膳と箪笥・文箱300点以上を買い込みました。クロスポイントで稼いだお金60億ウォンをほとんどすべてつぎ込みました。これを誰かがいくつか欲しいといえば、真心を込めて繋いできたラインが崩れるため差し上げられませんが、もし国家で博物館をつくり、まるごと展示するなら喜んで出すつもりです」

結局、2012年には螺鈿漆器を筆頭に伝統工芸品を現代的に再解釈し、各種生活用品としてつくり出すハイハンド(High Hand)を創業した。

「お金を眺めて始めた仕事ではないので、お金がどれだけかかってもつぎ込むという覚悟でしたが、幸い市場の反応が良く昨年、損益分岐点を越えました。今回は螺鈿漆器がさらに大きな仕事をしてくれと合唱していますね。韓国の工芸魂を世界工芸とデザインのメッカであるイタリアのミラノで知らせてほしいというものでした」

彼女はミラノで韓国工芸展を開くため、文化体育観光部を説得した。「注入式教育をするという覚悟で執拗に話し続けました。幸いにも長官政策補佐官を務めていらっしゃった方が私の意図を理解してくださいましたね。それで昨年4月、世界デザインエキスポ格の"ミラノデザインウィーク"で"韓国工芸の法古創新し展"を開くようになりました」

イタリア工芸の巨匠たちの反応は期待以上だった。「あるイタリアの建築家がいいました。韓国が世界的な製造業強国になったのは、テクノロジーの力ではなく人間の力、韓国人の力だということが分かる。携帯電話と自動車だけでなく、今では伝統の根を見せつけると乗り出した韓国人が怖いといいます。古い工芸伝統でデザインとファッション強国になったイタリア人の持論は、伝統が未来の動力だということであり、彼らが韓国の伝統工芸の底力を発見したのでしょう」

ソン代表は単純に展示会を開くために行ったのではないと語った。彼女は韓国大使館側の協調を得て、展示会に参席した名士たちを大使館邸に招いて晩餐を開いた。そこで伝統デザートの韓菓を披露した。単純に工芸の展示会でなく、韓国の高級文化を披露する機会とするためだった。「イタリア人は、韓菓が砂糖でなく蜂蜜で味を出したものだということにすぐに気づきましたね。反応が期待以上で熱狂的であったため、来る4月の工芸展示会ではオープニングイベントに韓菓を配置するつもりです」。彼女は昨年、工芸展を通じて「芋づる式」にイタリア工芸の人脈系譜を把握したと語った。「今年の工芸展では、毎晩2時間ずつ核心人士を招待してセミナーを開くつもりです。韓国工芸を確実に理解させ、互いに共感の幅を広めるためです」イタリア語も分からないまま現地をこんなにまで「掻き立てて」行き来させるエネルギーがどこから出るのか不思議だった。

単に表面にとどまらず、水面下の深い所へ降りて行くと通じる所があるからだろうか。「工芸展の準備のため、イタリアのインテリアデザイナーと毎日10時間ずつ3日間討論をしました。3日目になるとイタリア語が聞こえ始めましたね」彼女に対して決してでたらめや誇張でないという思いがした。彼女の熱情と直観はアパートや酒類・家電のネーミングを越えて螺鈿漆器の工芸魂を越え、異なる次元に向かっていた。大韓民国という国家ブランドのリニューアルだ。

「いつかは韓国的なものの価値、韓国のブランドを世界化した人として覚えられたいです」。彼女の心願がこれまでそうだったように、期待を飛び越える次元で実現されるだろうか。

■ ソン・ヘウォン代表は
ブランド業界で「ミダースの手」として通じる彼女は、1955年生まれで淑明女子高と弘益大学の応用美術学科を出て、1977年に現代洋行(現:ハンラグループ)企画室デザイナーとして社会生活を始めた。1986年にブランドデザイン会社「クロスポイント」創立メンバーとして参与し、1990年に会社を引き継いだ。1988年から2008年まで弘益大学の視覚デザイン科教授として講壇に立ったりもした。


  • 毎日経済_イ・チャンフン記者/写真_イ・チャンフン記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2014-03-21 15:44:19




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