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ムン・ジェイン、歴史学者を夢見た避難民の息子…維新反対デモで拘束

◆ ムン・ジェイン時代/誕生から司法試験合格まで ◆ 

  • ムン・ジェイン、歴史学者を夢見た避難民の息子…維新反対デモで拘束
△写真=①慶南高校卒業アルバムの中の文在寅当選者 ②大学時代キム・ジョンスク女史(左から2番目)と大学祝祭に参加した文在寅当選者 ③特戦司令部時代の文在寅当選者 ④息子ジュンヨンさん、娘ダヘさんとともに外出をした文在寅当選者家族 [写真提供=共に民主党選挙対策委員会]

文在寅(ムン・ジェイン)大統領当選者は、2012年の総選挙に立候補するまで一度も「政治家」や「大統領」を目標に生きたことはなかった。 2003年2月に当時の盧武鉉大統領当選者から呼ばれて、下着と靴下の入ったビニール袋一つだけを手に持って青瓦台に入り、5年後に再び元の場所に戻った。機会はあったが、政治家の道は自分の道ではないと考えた。

しかし、友人の不幸な死は彼を歴史の舞台に呼び出した。

振り返ってみると、ムン・ジェインは一度も「運命」を主導的に選択しなかったが、与えられた「運命」の前では一度も逃避しなかった。ムン当選者は自分の人生に対し、「私は一貫していつも正面から立ち向かう、そして逃げない人生を生きてきた」と自評した。

◆ 興南埠頭避難民の息子

ムン当選者は1953年1月24日、慶尚南道の巨済郡明珍里(ミョンジンリ)のみすぼらしい田舎の農家で生まれた。巨済は戦争を避けて北韓から下ってきた彼の両親が定着したところだった。

ムン当選者の親は1950年12月23日、興南(フンナム)埠頭から「メロディスビクトリア号」に乗って劇的に脱出に成功した。映画『国際市場で逢いましょう』に出てきたまさにその船だ。

2016年12月19日、ムン当選者はソウル駅前の延世ビルで開かれた玄鳳学(ヒョン・ボンハク)博士像の除幕式に出席した。韓国戦争当時、米10軍団アルモンド将軍の顧問だったヒョン博士は、「興南撤収作戦」の時にメロディスビクトリア号にあった武器を捨てて避難民を乗せるように説得した。除幕式の祝辞でムン当選者は、「ヒョン博士の偉大な勇気がなければ、私は生まれなかっただろう」と目頭を赤くした。

ムン当選者は子供の頃、避難民が集まって暮らす釜山の影島(ヨンド)で過ごした。影島は枯渇山(コガルサン)の山腹道路を中心に、傾斜した丘に絡まるように小屋が建ちならぶ代表的な貧民街だった。ムン当選者は幼い時、水泳よりも潜水をより先に学んだ。家では昼食が出ないので、海で貝などをとって昼食を解決しなければならなかったからだ。ムン当選者は「自立心と独立心を育てるところに大きく助けになったと考えている。貧困が私に与えた贈り物です。金というものはあまり重要ではないという今の私の価値観は、むしろ貧困によって私の中に根付いたもの」だと回顧した。

◆ 歴史学者になりたかった本の虫

子供の頃。ムン当選者の父親は統営(トンヨン)、馬山(マサン)、麗水(ヨス)、木浦(モッポ)などを回って商売をした。商売を終えて月に一度戻ってくる父親は、息子のために『プルタルコス英雄伝』のような本を買ってきた。勉強のできる子は父の誇りだった。

ムン当選者は釜山地域の最高の名門である慶南中学と慶南高校に入学した。貧しい家の子供たちが集まって住んでいた小学校とは異なり、富裕層の子弟がたくさん通っていた慶南中・高の雰囲気はまったく違った。彼は生まれて初めて経済的不平等が与える世界の不公平さを悟って、精神的な彷徨を経験したという。

このような思春期の彷徨は読書熱につながった。片っ端から本を読んで、学校図書館に最後まで残って本を読んだ。 『思想界』を読みながら社会意識に目覚めたのもその時期だった。 「その時、金大中大統領に文字で初めて接した。当時、労働問題研究所長として労働問題について記事をお書きになったが、労働三権保障のような主張をなさった」。

ムン当選者はそもそも歴史学者が夢だった。しかし両親と担任の先生の意のままにソウル大を相手に受験したが、落ちた。彼は不運の末に1972年、慶熙大法学科に4年全額奨学生として入学した。

ムン当選者の慶南高同期の中には良い友人が多い。パク・メンウ自由韓国党議員、徐秉洙(ソ・ビョンス)釜山市長、バク・チョンウン前議員、チェ・チョルグク前議員が政界で活動した同期だ。建築家のスン・ヒョサン、演出家のイ・ユンテクのような文化・芸術界関係者も高校の同期だ。

◆ 催涙弾が花を咲かせた愛

ムン当選者が大学に入学した1972年は維新憲法が宣言された年だ。ムン当選者は1975年4月、「人民革命党事件」の関係者が死刑判決を受けた後、司法殺人に抗議する大規模な学内デモを主導して拘束された。

ムン当選者が夫人キム・ジョンスク女史に会って恋が始まったのもこの頃だ。ムン当選者が3年生だった1974年、学園祭の時のパートナーとしてキム女史に出会った。その後はたんに挨拶を交わすほどの間柄としてすごした。そんな1975年4月、ムン当選者は維新反対デモに乗り出したが催涙弾に倒れた。運命のように、キム女史は倒れたムン当選者を発見して身を移しこうして恋愛は始まった。以後、キム氏はムン当選者が拘束されて強制徴集され、司法試験に合格するまでを待って結婚した。

ムン当選者は1975年に強制徴集された後、特戦司令部第1空挺旅団に配置された。ムン当選者は軍隊に来てみると、「私は軍人体質だということを知ることになった」と著書を通じて明らかにするほど軍生活に適応した。ムン当選者は1976年8月、米軍が犠牲になった板門店「斧蛮行事件(ポプラ事件)」の時、ポプラ除去作戦に乗り出すこともした。タイム誌は最近、ムン次期を扱った記事で彼を「斧蛮行事件の時、ポプラ除去作戦に乗り出した軍人」だと紹介した。この作戦を成功裏に終えた彼は、米軍からポプラの木片を記念に受けとった。そこには「国難克服徽章」という文字が刻まれていた。

◆ 留置場で通報を受けた司法試験2次合格

1978年2月、31ヶ月の満期除隊直後に父がとつぜん亡くなった。以後、ムン当選者は司法試験の準備を開始した。長男が家を継ぐという責任感からだったという。

全羅南道の海南大興寺に入り、司法試験にしがみついた、1979年、司法試験に1次合格した。しかし「10・16釜馬抗争」が起きたことを見て学校に復学し、復学生代表としてデモの真ん中に立ったが、けっきょく1980年5月に拡大戒厳措置が発動されて再び拘束された。ムン当選者はこれまで準備したものが惜しくて、1980年4月の学内デモ中に2次試験を受けたが、警察署の留置場で2次司法試験の合格通知書を受けとった。警察署長は、祝いを兼ねて面会にきた学生課長と法学部同窓会長を留置場の中に招き入れ、ささやかな焼酎パーティーを開くことができるようにしてくれた。警察の歴史上で空前絶後のことだった。

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△写真=①青瓦台秘書室長在職当時盧武鉉大統領に随行している文在寅当選者 [写真=共に民主党選挙対策委員会] ②盧武鉉大統領逝去当時烽下村(ポンハマウル)の喪屋の文在寅当選者 ③2012年18代大統領選挙出馬を宣言する文在寅当選者とキム・ジョンスク女史(右)、息子ジュンヨン氏(左) ④文在寅当選者が去る8日夕方光化門の遊説で孫を抱いて明るく笑っている。右側は娘のムン・ダヘ氏

◆ 盧と運命的な出会いと別れ

ムン当選者の司法研修院の同期らは物故したチョ・ヨンレ弁護士と朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長、朴時煥(パク・シファン)前最高裁判事、宋斗煥(ソン・ドゥファン)前憲法裁判官、李貴男(イ・グィナム)前法務長官、パク・ピョンデ判事、パク・チョンギュ前民政首席、趙培淑(チョ・ベスク)議員、パク・ウンス、コ・スンドク前議員など華麗な面々だ。そうそうたる同期の間で、ムン当選者は次席で研修院を終えた。

しかしデモの前歴のために裁判官の任用からは脱落し、釜山に下り弁護士生活を始めた。釜山で盧武鉉弁護士との運命的な出会いが始まった。二人は1982年8月、ムン当選者の司法試験同期のパク・チョンギュ前青瓦台民政首席の紹介で初めて会った。ムン当選者は当時の出会いについて、「気さくで率直で親しかった」と思い出す。意気投合した二人は、「弁護士盧武鉉、ムン・ジェイン合同法律事務所」を開き、釜山の代表的な在野人権弁護士として活動した。盧前大統領が政界に入門してしばらく離れた二人は、2002年に盧前大統領が大統領選挙に出馬したことで再び力を合わせた。大統領選挙の政局では釜山選挙対策委員会本部長を務め、参与政府時代には初代民政首席、市民社会首席、民政首席などを経て、参与政府最後の秘書室長を務めた。

ムン当選者は青瓦台時代、誰よりも竹を割ったような性格だった。青瓦台に訪ねてきた高校の後輩があいさつに立ち寄って「慶南高のXX期生です」というと、その言葉が終わりもしない前に背を向けて座っていたという。そして大統領を至近距離で国政全般を補佐したことから、いつも激務に苦しめられた。青瓦台生活を1年過ごすあいだに、過労が原因でなんと10本の歯が抜けるほどだった。

2009年に盧前大統領が亡くなったとき、逝去のニュースを直接発表した。盧前大統領の葬儀の時にペク・ウォヌ前議員が李明博大統領に声をあらげたが、ムン当選者は李大統領に頭を下げて謝罪した。この場面がムン当選者を「悲しみと怒りを節制することを知っている品格のある人」として大衆にきざみこんだ。しかし、その節制された悲しみと怒りが運命のように彼を政治家に導いた。ムン当選者は著書『運命』で「あなた(盧前大統領)は現在、運命から解放されたが、私はあなたの残した宿題で身動きできなくなった」と回顧した。

◆ 一回の失敗、そして再挑戦

ムン当選者は2012年の大統領選挙に乗り出したが、朴槿惠 (パク・クネ)候補に敗れた。しかし一回の失敗は、彼をより広い政治家に育てる基礎になった。

2016年の4・13総選挙を控えて当時、ムン・ジェイン代表と民主党は危機に直面した。安哲秀(アン・チョルス)民主党もと代表が離党して国民の党を結党し、続いてキム・ハンギル、パク・チウォン、チョン・ジョンベ議員などが次々と離党して国民の党に合流した。最も深刻なことは、民主党の根である湖南(ホナム)の支持率が低下し始めたという点だ。ムン当選者はこの時、この危機を新しい人材のスカウトで突破した。ムン当選者を変化させた最大のきっかけは、セウォル号事件だった。子供を守らなかったという罪悪感、申しわけなさが「良い世界を作る」という約束につながり、不足しているという評価を受けてきた「権力への意志」を強化した。

※ 当選者への40問40答

1. 生年月日= 1953年1月24日(グレゴリオ暦)
2. 出生地=慶南巨済(コジェ)
3. 身長、体重、靴のサイズ、血液型=172㎝、67㎏、26センチ、B型
4. 宗教=カトリック(洗礼名テモテ)
5. 出身学校=釜山ナムハン初等学校 - 慶南中学 - 慶南高校 - 慶熙大学科
6. 家族関係=婦人のキム・ジョンスク女史との間に1男(ジュンヨンさん)1女(ダヘさん)
7. 両親と兄弟姉妹=父親の故ムン・ヨンヒョン氏と母親のカン・ハノク氏のあいだに2男3女の2番目で長男
8. 座右の銘=難しいほど原則に戻れ
9. 子供の頃の夢=歴史学者
10. 学生時代のニックネーム=問題児。画一的で抑圧的だった当時の教育の雰囲気と合わずぶつかって、「問題児」というニックネームが生じた
11. 趣味=登山。3回のヒマラヤトレッキングは人生の転換点になった
12. 必ず行ってみたい所=咸鏡南道興南。両親が「6・25」当時、避難する前に住んでいたところ
13. 一日の睡眠時間= 7時間
14. 好きな食べ物と嫌いな食べ物=刺身と海産物、特に好き嫌いはない
15. 私の人生の本=『転換時代の論理』(リ・ヨンヒ著)
16. 好きな曲=「夢見る白馬江」
17. 酒量と酒癖=酒量は焼酎ボトル一本で、特に酒癖はない
18. 自分の外見に点数をつけると=大学時代、フランスの映画俳優アラン・ドロンに似ているという話をちょっと聞いて、そのおかげで合コンで妻に会えた
19. タバコ=2004年に青瓦台民政首席をやめてネパールヒマラヤトレッキングをしなが禁煙に成功
20. 月の小遣い=本を数冊買って、人に会うときの食事代や飲み代になるほどだ
21. 最も大切なもの=法務法人「釜山」を開業したときにノ・ムヒョン前大統領が開店祝いに送ってくれた掛け時計。 「証盧武鉉」字が刻まれている
22. 好きな漢字成語=「再造山河」
23. 好きな英語単語= Dream(夢)
24. ストレス解消法=歩く。畑仕事をしたり木を植えたり、庭で草を抜く単純労働も
25. 最も嬉しかったこと=司法試験合格と盧武鉉前大統領の当選
26. 最も後悔すること=父が亡くなる前にうまくいった姿を見せなかったこと
27. 自分にタイムマシンがあれば=亡き父が生きておられた時に帰りたい。長男が司法試験に合格した姿を見せたらどれほど良いだろうか考えたら涙が出る
28. 自分の長所=初めて会う人に好感を与えること
29. 自分の欠点=過度な真摯さと潔癖主義
30. 最も尊敬する人=茶山丁若鏞(チョン・ャギョン)先生。民本主義と実用主義をもたらした方
31. 最も尊敬する現代政治家=フランクリン・ルーズベルト元米大統領。進歩的でありながら統合的なリーダーシップを尊敬
32. 好きな芸能人=イ・ウンミ、ソン・ガンホ
33. 感銘深く見た映画=『光海、王になった男』。人々が見る前であれほど泣いたことも初めてだった。映画のあちこちに盧武鉉前大統領を思わせる場面が多く、感情がおさまらなかった
34. 怒った時の行動=たいてい怒るときは一人で考えにふける
35. 誕生日には何をするのか=家族とちょっとした夕食
36. プロポーズは=妻が先。友達といるのに妻が来て、とつぜん「ジェイン、あなた私と結婚するの?しないの?早く言いなさい!」と言って、びっくりして「わかった」と言った
37. 結婚したときの第一の悩み=結婚することにしたときは貧しい失業者だったので、部屋を借りるのが心配だった
38. 大統領になった後も、変わらないものがあれば=光化門で国民とマッコリ一杯、週末には妻と市場に買い物をする素朴な生活
39. 引退後の生活を描いてみると=自動車旅行
40. 身体の秘密=インプラントとつま先だ。参与政府時代に歯が10本も抜けインプラントにした。つま先は本当にブサイクだが、2012年の大統領選挙時に全国を歩き回ってマメができて爪が抜け、もうめちゃくちゃになった
  • キム・ギチョル記者/オ・スヒョン記者
  • 入力 2017-05-10 08:45:44




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