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韓国ラーメンの代父…三養食品創業者の全仲潤名誉会長

日本から伝授され、1963年に最初のラーメン発売…朴大統領と縁格別 

  • 韓国ラーメンの代父…三養食品創業者の全仲潤名誉会長
△写真=生前に三養食品の工場を訪問した朴正煕もと大統領(右はし)と朴槿惠大統領(右から2人め)が全仲潤(チョン・ヂュンユン)名誉会長の案内で工場を見学している。

全仲潤(チョン・ヂュンユン)三養食品名誉会長は、国内ラーメン産業の歴史の生き証人で「ラーメン業界のゴッドファーザー」とも呼ばれる。江原道出身の立身出世した企業人のうちで長兄格であり、江原道知事が就任すると企業人の中で一番最初に挨拶するのが慣例となったという。チョン名誉会長は飢餓の解決が重要だった1960年代初め、ぐうぜん南大門市場で空腹の庶民らが一杯5ウォンもする「雑炊」を食べるために長い列を作る姿を見て胸が詰まった。

当時の韓国は依然として伝統的な農業国で、国民所得は世界最貧国の水準である100ドルにも及ばなかった。国内の食料自給の問題解決が急務であると考えたチョン名誉会長は、日本を訪問した際にラーメンを試食した経験を思い出して、1961年に三養(サミャン)食品を創業した。

チョン名誉会長は当時、中央情報部長だった金鍾泌(キム・ヂョンピル)氏を苦労して説得し、工場設備資金5万ドルを割り当ててもらった。この資金でまだ国交樹立がなされていなかった日本の明星食品を訪ね、機械と技術を伝授された。

このようにして1963年に、国内初のラーメン「三養ラーメン」が雑炊2杯の値段10ウォンで誕生することになる。

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  • < 生前のチョン・ヂュンユン名誉会長(左はし)が三養ラーメン工場を訪問し、従業員に指示を出している >

チョン名誉会長は、やはり国民の食料自給に関心の高かった朴正煕もと大統領と縁が深い。故人は「ラーメンで食糧問題を解決する」と自信を見せたが、すぐに国民の冷淡な反応にぶつかった。ある日、三養ラーメン工場を訪問した朴もと大統領は、売れなくてうず高く積まれたラーメンの在庫を見た。試食をして、「わが国の人々は辛く塩辛いものが好きなので、唐辛子をもっと入れなければ」と忠告したという。

その結果、われわれの口にあった辛いスープのラーメンを生産し始め、ご飯と汁物に馴染んだ消費者の食欲を引っ張り始めた。折よく政府も食糧危機の解決のために「混粉食奨励政策」を実施し、三養ラーメンは飛ぶように売れた。

いま開発の方向性が議論されている大関嶺(テグァンリョン)三養牧場も、事実上は朴もと大統領の指示で始まった。朴もと大統領は1970年代初めに、遊んでいる山地開発のためにチョン名誉会長をそっと青瓦台に招いた。チョン名誉会長は大関嶺の土地を国から50年間、低廉な費用で長期賃貸され、一時は4000頭をこえる牛を育てて牧畜業を成長させた。

チョン名誉会長の忘れられない試練は1989年に訪れた。「牛脂波紋」として有名な事件で、当時ラーメン業界2位だった三養食品は、ラーメンに非食用牛脂を使用したという理由で、工場の稼働を停止しなければならなかった。

事件が発生して16年後、チョン名誉会長は毎日経済新聞とのインタビューで、「牛脂波紋よりも1000人余りの従業員を失ったのがもっと悲しい」とし、「すでに年老いており、それ以上老いることもできず、やることは多いので死ぬこともできなかった」と当時の悔しさを表わした。

故人のモットーは「人間百懐千歳憂(人間は百歳を生きるが、千年の後まで考えなければならない)」で、今日の企業人に大きな意味を投げかける。故人は2010年に経営の一線から退いて、長男のチョン・インヂャン会長に経営権を承継した。
  • 毎日経済_ソ・チャンドン記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2014-07-11 15:58:30




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