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「記憶せよ」高實康稔…母国に叱咤を残した日本人学者


    1939年の日帝強占期。ソウルで日本人の男の子が生まれた。6歳になった1945年。日本が敗戦すると、この子どもは山口県に帰国した。九州大学で仏文学を専攻した彼は、世界史の現場で犯した母国の間違いを認識する。時間が流れて1970年代。原爆被害者救済運動と朝鮮・中国人強制連行というテーマにこだわった彼は、核攻撃が行われた長崎に「平和資料館」を建設し、一生を戦後補償運動に献身する。


    韓国には名前があまり知られていなかったが、日本の良心的知識人として生きた高實康稔(たかざねやすのり、1939~2017)の遺稿集が出版された。強制徴用に対する消えやらない現在の苦痛を同時に眺める本だ。特に2015年の日本の軍艦島のユネスコ登録を痛烈に批判する。

    日中戦争が激化して日本の若い青年たちが戦場に出ると、労働力の不足した日本は朝鮮青年を強制連行した。最初は「募集」の手順だった。 1939年7月に施行された募集は契約という形だったが、概して詐欺・誘拐に近かった。 1942年2月に「官斡旋」制度が施行され、悲鳴が大きくなった。面事務所は独身でも家族がいても、朝鮮青年を一網打尽に連行した。それでも法的強制力はなかった斡旋の時期を過ぎて、「徴用」が開始された。

    家族と生き別れになって企業に引かれていった朝鮮青年は100万人に達した。日本政府が公認した徴用者数も72万人だ。

    落盤事故でひと月に4人・5人と死んでいく坑道と切羽(ソ・ジョンウ被害者)、感電したり墜落して死ぬ人が続出する造船所(キム・ハンス被害者)、米ともやしが食事の全てのトンネル工事(パク・ヨンナム被害者)の証言を一つずつ調べて、著者は徴用の影に顕微鏡を突きつける。謝罪しない母国に向けて、著者は「記憶の文化」を確立するように主張する。

    長崎の原爆記念物が消えていく現実に対する省察も注目を集める。

    東洋一を誇り1914年に完工した浦上大聖堂は、暴心地から500メートル離れていた。聖徒1万2000人のうち8500人が即死し、大聖堂は廃墟となった。大聖堂の壁面の一部が公園に移設されたが、大聖堂のあったところは1958年に完全に消えた。暴心地から6キロ離れたところに強制連行された朝鮮人の宿舎があったが、日本の自治体は費用と方法を理由にあげて解体と撤去を決定した。連れていかれた朝鮮人たちが最後の目を閉じた死刑場だった浦上刑務所も、けっきょくは埋めてしまった。

    この本は「記憶の文化」を通じて名誉を回復しようとするドイツと日本の現実をじっくりと対照しながら、「不名誉をなすりつけられた後世代は、名誉回復を企てる責務を避けられない」と診断する。高實康稔の人生は「崇高の極端」を見せる。
  • 毎日経済 | キム・ユテ記者 | 入力 2021-11-19 17:15:26