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剛直なソンビの表象...鄭汝昌と南溪書院

    • 慶尚南道咸陽郡に位置する南溪書院。チョン・ヨチャンを祭香している。 [写真提供=韓国書院統合保存管理団]



    生涯を剛直な人柄で実践する倫理を強調した「一蠹(イルドゥ)」鄭汝昌(チョン・ヨチャン)を祭る南溪書院(ナムゲソウォン)は慶尚南道の咸陽郡水東面(スドンミョン)院坪里(ウォンピョンリ)に所在する。「介庵(ケアム)」姜翼(カン・イク)を中心に、咸陽儒林たちが協力して1552年に創建した。 1566年に「南溪」という名前で賜額されたが、これは書院の前に流れるせせらぎの名前から取ったものだ。

    1597年の「丁酉再乱」で焼失し、付近のナチョンに一時移し替えられたが、1612年にほんらいの場所に戻して再建された。鄭汝昌は父と8歳で死別して独学で学問を磨いてきたが、当時咸陽郡主として赴任してきた金宗直(キム・ヂョンヂク)の門下生となった。鄭汝昌の幼名は伯勗(ペクウク)だったが、父が義州に官吏として出向しているときに伯勗に目をとめた中国の使臣が、「おまえは成長して家を大きく創成することになるだろうといい、名前をヨチャン(汝昌)にしろと言った」と伝わっている。その後、本人自らが号をつける際に名前が大きすぎるとみて、自分を低くしてただの小さな虫に過ぎないとして「一蠹(イルドゥ)」とした。

    1490年に文科別試に及第して以来、藝文官検閲や世子侍講院の説書として過ごしたが、あまりにも剛直な性格で世子燕山君(ヨサングン、1476~1506)と意が合わず辞任し、1494年に安陰県監として赴任して善政を施した。租税に苦しむ民が平安に生きるための10の規則である「便宜數十條」を建てて施行してから1年めで功績をほめたたえられた。

    1498年に「条祭文」による「戊午士禍」の時、金宗直の弟子という理由で咸鏡道鐘城に流刑された。鄭汝昌は流刑地でも弟子を教え学問に専念したが、けっきょくそこで1504年54歳のときに病でこの世を去ったが、その年の秋の「甲子士禍」の時には「剖棺斬屍」された。しかし中宗のときに副権して右議政に追尊され、1610年に文廟に配向された「東方五賢」のうちの一人だ。

    秀麗な自然景観が広がる南溪書院は、傾斜地を利用して前学後廟の建物配置を行って以後、書院建築の典型となった。入口の紅箭門(ホンサルムン)は祠堂や墓地のある神聖な場所に建てられて、邪気を防ぐ「辟邪」の意味がある。紅箭門を過ぎると書院の正門格である風詠樓(プンヨンルー)が迎える。風詠樓の2階の楼は院生や儒林たちが集まって会合を持ったり、詩会を開いて風流を楽しんで心身を高揚させる天人合一の空間だ。

    南溪書院の講堂の名称である「明誠堂」は、理知に明るければ誠実になるという意味だ。堂の両側の居敬齋と集義齋は、心をまっすぐにして義を蓄積して浩然の姿勢(浩然之氣)を整えなさいという意味だ。前庭に向かい合う東斎の養正齋と西斎である輔仁齋は教育で人を正しく育てることは大人の功徳であることから、書院の儒生たちは仁で互いを助け起こしながら勉強に邁進しなければならないという学習の精神を悟らせる。

    めずらしく南溪書院の東・西斎の前にはそれぞれ美しい小さな蓮池が二つ並んでいる。この蓮池を鑑賞する部屋にそれぞれ愛蓮軒とヨン梅軒という扁額をつけた。この蓮池を愛する心は泥の中で孤高の品位を保つように、世俗に汚されていないソンビ(士)の志操を教える。ヨン梅軒は梅の花を歌う心は雪が降る寒さの中でも花を咲かせる梅のように、逆境に屈しないソンビの高潔な精神を象徴する。知識を完全にして、これにしたがって実践を徹底しようという鄭汝昌が求めていた学問の本質と一脈通じるものだ。

    祠堂は一番上にあるが、特に名前はない。中央に鄭汝昌、東に南溪書院を建立した姜翼、西には丙子胡乱のときに竹を割ったような節?(節度と気概)を守った鄭蘊の位牌が祀られている。これらの方がたの功績は前庭の廟庭碑に刻まれている。昔から「左安東、右咸陽」とされ、咸陽は由緒あるソンビの本場だ。
  • イ・ベヨン韓国書院統合保存管理団理事長 | (C) mk.co.kr | 入力 2020-05-15 20:24:37