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ドラマの歴史人物、「鄭道伝」について教えて下さい。


『開国』KBS1(1983)キム・フンギ
『龍の涙』KBS(1996)キム・フンギ
『大風水』SBS(2012)ペク・スンヒョン
『チョン・ドジョン』KBS(2014)チョ・ジェヒョン
『六龍が飛ぶ』(SBS 2015)キム・ミョンミン
映画『パイレーツ』(2014)アン・ネサン

*映画『パイレーツ』とドラマ『大風水』で鄭道伝(チョン・ドジョン)は、陰険な奸臣輩として登場します。 2012年に放映されたSBSドラマ『根の深い木』では故人ではありますが秘密結社「密本」を作った人物として登場します。

**『六龍が飛ぶ』に先立ってMBCで鄭道伝と李芳遠(イ・バンウォン)の対決を描いた『破天荒』を放送する計画でしたが、無期限延期となりました。

***『開国』と『龍の涙』で鄭道伝役を演じた俳優キム・フンギ(2009年逝去)は、国民大学で鄭道伝の政治思想を講義するほどの専門家でした。『龍の涙』で李芳遠に「これからはゆっくりと休ませてほしい、甥」と絶命詩を詠むシーンが出てきます。このシーンを撮影した当時、どこかで鳴いているヤギのせいで度々NGが出ると「あの子ヤギ」と腹を立て、「本当に死ぬのは大変だ」と言ったそうです。

1971年に起こったロシアの10月革命を話すときに欠かせない人物がレフ・トロツキーですね。赤軍の創設者として、レーニンの有力な後継者でしたが、同い年のライバルで犬猿の仲のスターリンとの権力闘争で追放された後、メキシコで暗殺者に暗殺された革命家ですね。

三峰(サムボン)鄭道伝(1342~1398)の人生はトロツキーとそっくりです。いやトロツキーが三峰の前轍を踏んだと言うべきでしょうか。とにかく二人は、革命により建てた国の思想的基礎を作り、軍事システムを確立した人物です。過激な性格で敵をたくさん作っては、権力闘争で追われ、非命に倒れたことも似ていますね。

  • ドラマの歴史人物、「鄭道伝」について教えて下さい。
権五昌(クォン・オチャン)画伯が描いた鄭道伝の標準肖像画です。朝鮮王朝から終始逆賊扱いを受けたため、当時描かれた肖像画はありません。

一言で鄭道伝は風雲児です。科挙*に及第(合格)した後、一時、恭愍王の寵愛を受けましたが、親元派の権門勢族に睨まれたせいで、さすらいの生活をすることになります。一緒に流刑された仲間は、ほとんど復職できましたが、妥協することを知らない剛直した性格のせいで、長い期間野人生活をしたのです。

*韓国と中国で官吏を選ぶとき実施していた試験。韓国では高麗4代王光宗9年(958)に始めて実施しました。

浮遊しながら民の生活を直接見て悟りを開きながら高麗王朝への希望を失うことになります。新しい王朝を立てる道だけが改革の唯一の希望だという結論を下した彼は荒山大捷により北方の英雄になった李成桂を訪ね側近になります。

遼東征伐に向かっていた李成桂が威化島で回軍した後、私田改革を主張し、恭讓王2年(1390年)、既存のすべての土地文書を開京の真ん中に積み上げて火をつけました。彼の過激な改革に高麗王朝の存亡に脅威を感じた鄭夢周によって流刑に合い、殺害される脅威にさらされることもありましたが、鄭夢周が殺害され、再び権力の中心に立ち、朝鮮王朝を立てる一番の貢献者となりました。

朝鮮建国後は、李成桂の無限の信頼を受けて、事実上の王に次ぐ権力を持つようになります。建国過程でほぼ全部門に参加し、彼の手が及ばないところがないほどでした。漢陽(今のソウル)の主要な建物を設計して、名前も付けました。朝鮮の法制である経国大典の母体になった「朝鮮経国典」を作り捧げ、三軍府を設置し、私兵を廃止した後、軍権を掌握しました。

この過程で、私兵を奪われた権門勢族に反感を買い、明の国には脅威的な存在として浮上しました。明の太祖朱元璋は、朝鮮に鄭道伝の押送を要求しました。このとき、「彼はお腹が膨れあがる病気にかかりできない」と返信したという逸話が伝えられています。

朝鮮王朝の実質的な設計者として、彼は改革を主導しましたが、決して容易ではない仕事でした。牧隠(モグン)、李穡(いセク)など旧勢力の多くが生き残ったうえに、功臣と宗親たちも改革に反発しました。ここに明の国にまで疑いの目を向けられていたので、彼は孤立無援の状態だったかもしれません。李成桂の後光だけが彼の支えでした。

とにかく明の攻勢に対抗し鄭道伝は遼東征伐を推進しますが、これは全面戦争を図ったというよりは、警告の意味が強く、遼東征伐を名分にして軍制を改編しようとする目的が強かったと見なされています。遼東征伐の反発は激しいものでした。

すぐ私兵廃止で守勢に追い込まれた朝鮮3大太宗になった李芳遠が世子の芳碩(バンソク)などを殺害する王子の乱(1398年)を起こします。鄭道伝は、李成桂が寵愛していた継妃の神徳王后の生みの子の芳碩、芳蕃(バンボン)兄弟と一緒に運命を別にします。遼東征伐が決定された後の17日後に起こりました。

彼の最後に関しては、別の記録があります。『朝鮮王朝実録』は芳遠に「助けてくれと祈った」と卑屈な姿で記述されていますが、息子が命を請うように求める言葉には「私がすでに高麗を裏切ったのに、またこちらを裏切り向こうにつくなら心に恥がなかろうか」と拒否したという記録もありますね。李芳遠に連れて行かれる前、寝室の中で短剣を握って出てきたと伝える記録もあります。

彼の文集の『三峰集』には次の絶命詩が伝えられています。

志を維持し、自分を省みる両方すべてに励みつつ
聖賢の教訓を裏切ることなく
三十年の長い歳苦難の中で務めてきたが
松亭の一杯の酒で、すべてが過ぎ去ってしまったな
(操存省察兩加功、不負聖賢黃卷中、三十年來勤苦業、松亭一醉竟成空)
  • Lim, Chul
  • 入力 2017-05-17 00:00:00




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