A. | 1970年代はなんだか奇妙な時代でした。ロマンチックと退廃が共存した時期といったところでしょうか。韓国だけではありません。米国でも大学街で反戦を叫ぶ若者たちのヒッピー文化により、だるい享楽があふれる社会的雰囲気でした。 大学街の一方では、独裁政権を打倒しなければならないという血気が雄弁をふるい、一方では、若い恋人たちがギターを持ってポップソングを歌って密語を語り合っていました。ソン・チャンシク、ユン・ヒョンジュなどの70年代を代表する歌手たちの歌が青春の泉を刺激していた時代でした。 大学街だけのことでしょうか。近所にある喫茶店ではDJがリクエストを受けて、ポップソングを流してくれていました。リクエスト曲を書いて出すときに添えておいた簡単なエピソードも一緒に読んでくれました。中年以上の人々が出入りする喫茶店は例外でしたが、若者が集まる喫茶店では例外なくDJが活躍していました。喫茶店の一角には、DJボックスもありました。 DJたちは音楽を専攻した人ではありませんでした。演劇や音楽に興味がある大学生も多く活躍していました。声が良くて目鼻立ちが整っていたDJはかなり人気があり、おそらくたくさんの女性を泣かせていたことでしょう。 高校生たちも喫茶店に行きたいのはやまやまでしたが、入場が禁止されていました。実際には、私服を着て喫茶店に出入りする高校生もいましたが、ばれたら喫茶店の営業が停止される可能性もあるため、喫茶店のマスターたちを困らせる存在でした。 その頃、韓国の若者たちの間で代表的なおやつのトッポッキが登場したのです。トッポッキは、もともと宮中で食べられていた貴重な料理でした。餅に肉と野菜をたっぷり入れて醤油で味を合わせて炒めた料理です。一般庶民たちは、そのような料理があるとは知らず、料理名すらも聞いたことがなかったのですが、生活水準が向上して、庶民も味わうことができるようになりました。 しかし、調理する方法は雲泥の差でした。肉はなくなり、代わりに米軍が駐留した当時から韓国人のタンパク質供給源となったハムとソーセージ、ねりものが入り、醤油の代わりにコチュジャンが味付けをする材料となりました。 トッポッキを売る店は東大門運動場近くの新堂洞に密集し始めました。当時、プロ野球が生じる前、韓国で人気を集めたスポーツは高校野球でした。今とは違って、複数の新聞社が高校野球を主催していました。野球場には応援に来た学生と卒業生が大勢訪れました。
応援に来た高校生たちが多く訪れる場所は新堂洞トッポッキのお店でした。新堂洞に定着し始めたトッポッキのお店は20店舗をはるかに超えていました。MBCのラジオ、イム・グクフイの『女性サロン』でトッポッキの店の話をしてから、口コミで人気を集めていたトッポッキ路地は一躍ホットスポットになりました。そのような中で、1970年代半ば、今ではなくなった「パボドゥル(馬鹿たち)」というトッポッキのお店がミュージックボックスを設置して、DJが曲のリクエストを受けて音楽を流し始めました。 この場所を訪れる学生が増えると、近所のトッポッキ店も競争をするようにミュージックボックスを設置し始めました。 DJはもちろん、洋楽が好きな学生が多かったのです。 トッポッキのお店のDJの人気はDJ DOCが歌った『ハリケーン・パク(新堂洞トッポッキ)』という歌でも十分に知ることができます。 「久しぶりに会った彼女 トッポッキがとっても好き 行ったところは新堂洞トッポッキの店 トッポッキ一皿にラーメンとチョルミョンを一つ ないお金で注文してみたけど 彼女が好きなトッポッキを置いておいて 見つめていたのは、ミュージックボックス内のDJだね ミュージックボックスの中にハリケーン・パク」 寄付をすることで有名なキム・ジャンフンも、ソウル恩平区にある礼一女子高校近くにあるトッポッキ店でDJをしていた経歴があるそうですが、女子学生たちの心をひきつけるのDJだったことでしょう。この学校の出身者は、まだその味を忘れられなくて、時々訪れるそうですが、キム・ジャンフンがDJをしていたあの頃の思い出に浸りたい気持ちも少しはあるでしょう。 今は? DJを雇用していた喫茶店はほとんど姿を消しましたが、トッポッキ店の中にはまだDJたちが活動する場所が若干、残されています。トッポッキ路地にもミュージックボックスを備えたトッポッキ店があります。ただし、静かな雰囲気の中でおいしく食べることが好きな人も多いため、今ではDJのいるトッポッキ店は非常に珍しいです。 |