A. | 過去2012年初めに公開された『ダンシングクイーン』という映画がありますよね。往年新村のマドンナとして名前を飛ばしていたオム・ジョンファが、ダンス歌手になる機会を得ましたが、あいにくにも夫ファン・ジョンミンがソウル市長候補として出馬することになり、それにまつわる話を描いたコメディ映画です。 年齢に比べてものすごく童顔ですよね。あと1年で50ですが、いまだにセクシーディーバだなんて? それでも映画『ダンシングクイーン』の序盤で大学生として出てきたのはちょっと無理があったでしょう。いくらの童顔だとはいえ歳月を逆上るのは不可能ですよね。 1990年代に韓国歌謡界を風靡したセクシーディーバのオム・ジョンファを一言で紹介するのは難しいです。しばらくは歌手活動は置いておいて、演技に邁進し、再びアルバムを出して舞台に立ったため、女優なのか歌手なのか正体が不明ですよね。2分野で成功した韓国では数少ない芸能人でしょう。 そのためか女性歌手たちが1位に挙げるロールモデルでもあります。韓国歌謡界でセクシーディーバの最高の座はオム・ジョンファに続いてイ・ヒョリに続きますが、イ・ヒョリは演技者としてはあまり認められはなかったためでもあります。 韓国で歌手と女優の両方の分野で共に大きな成功を収めた芸能人に、チャン・ナラとイ・ジョンヒョンらがいますが、ヒスパニック系スターのジェニファー・ロペスに比肩する女性芸能人としては、オム・ジョンファがほぼ唯一です。今まではということでしょう(チャン・ナラとイ・ジョンヒョンは、セクシーとは少し距離もあるため)。もちろん、ロペスが女優と歌手に化粧品事業でも成功したため、オム・ジョンファより一枚上だとも言えるでしょう。 オム・ジョンファは、原州(ウォンジュ)で女子高を出た後、しばらくの間、MBC合唱団で活動しました。当時、放送局合唱団はたまに歌手たちの舞台に出て、後ろでバックコーラスとして雰囲気を盛り上げる役割をしましたが、合唱団員のオム・ジョンファは歌を歌いながら唇をじっと噛みしめたでしょう。 デビューは演技の方が先でした。1992年に映画『結婚物語』で端役である女性DJを務めたのが、芸能界に入る第一歩であり、翌年に出演した映画『風吹く日には狎鴎亭洞に行かなければ』のOSTを歌いながら歌手活動を並行し始めました。 演技の方では、2003年に日本の作家鎌田敏夫の小説『29歳のクリスマス』を脚色した映画『シングルス(Singles)』が220万人の観客を集め、成功を収めるまであまり面白みを見ませんでした。以前に出演した映画の中で観客が最も多かった作品が『情愛(原題:結婚は狂気の沙汰』(2002年)ですが、公開劇場でその映画を見た観客も42万人と、自慢するほどの数字ではありませんでした。 しかし、当時の映画出演はおまけでしたね。90年代のオム・ジョンファは、演技者ではなくセクシーなダンス歌手としてより記憶されるのですから。 オム・ジョンファがファーストアルバム『Sorrowful Secret』を出す当時、韓国歌謡界を風靡した女性歌手たちのイメージは、清純可憐でした。セクシー方面としては、オム・ジョンファと同い年であるキム・ワンソンが唯一でした。大勢のイメージは、カン・スジ、ハ・スビンに代表する清純美でした。 当時、オム・ジョンファもセクシーとは距離のある清純な印象だったでしょう。所属事務所でも清純なコンセプトでアルバムを準備中でしたが、『風吹く日には狎鴎亭洞に行かなければ』の音楽監督を務めたシン・ヘチョルは、オム・ジョンファに内在したセックスアピールを垣間見ました。シン・ヘチョルは、オム・ジョンファの才能を引き出すために叱ったりもし、勇気も引き立てて、すごく苦労したといいます。そのようにセクシーディーバが誕生したわけです。 セクシー歌手オム・ジョンファが出したファーストアルバムは、販売量が8万枚に過ぎないほどで興行成績は低調でしたが、若いオスたちには女神として映りました。特に、軍人たちは熱狂したんです。デビュー初年度にすでに「軍人が最も好きな歌手」の地位を獲得しました。 オム・ジョンファは、彼女にセクシーコンセプトを作ってくれたシン・ヘチョルに対する感謝の気持ちを忘れません。2014年にシン・ヘチョルが不意の医療事故で他界した後、オム・ジョンファは「兄さんに正式に感謝したかった。『瞳』という曲がなかったら、これまでのオム・ジョンファという歌手も存在できなかったんです」と心情を吐露しました。 1997年に『裏切りのバラ』が収録された3集アルバムが40万枚を売れながら空前のヒットを記録し、オム・ジョンファは歌謡界を席巻しました。歌も歌ですがバラのトゲを象徴する先が尖って立てたヘアスタイル、濃い化粧、黒の舞台衣装などで舞台で踊るオム・ジョンファは、セクシー、それ自体でもありました。 作曲家であり歌手のチュ・ヨンフンと手を取って作った4集アルバム『Invitation』(1998)には、『招待』、『Poison』、『隠れた絵探し』どの名曲が収録さました。さらに、さまざまな芸能人が4集活動に登場し、今も人々の口に上り下りするエピソードを作り上げました。 今日の待っていた このような夜が来るのを 君と2人きりで夜が明ける私たちの夜を 私は待ってきた 火をつける必要がない 何も言う必要はない 非常に簡単に歌詞が伝えられるタイトル曲『招待』を作詞作曲した人は、パク・ジニョンでしょう。パク・ジニョンが後に明かしたことで、オム・ジョンファとフィルムが切れるほどお酒を飲んだ翌日、電話をかけましたがオム・ジョンファが「私の歌を作ってくれると言った事を覚えているでしょ」と尋ねると、何も覚えていなけれど、「覚えてるに決まっているだろ」と言っては、しばらくの間オム・ジョンファが歌う曲を作る作業に没頭し、急いで作った曲だといいます。 『招待』は、扇子を活用したセクシーな振り付けと破格的な露出レベルのミュージックビデオで、センセーションを巻き起こしました。そして、この曲のラップパートをgodデビュー前のデニー・アンとパク・ジュンヒョンが引き受けて歌ったりもしました。 タイトル曲『Poison』も劣らないエピソードを持っていますね。まず、Koyoteのメンバーキム・ジョンミンがオム・ジョンファのバックダンサーとして入門し、人気トップのチャ・スンウォンがミュージックビデオを撮り、演技者として成長するきっかけを作ってくれた曲でもあります。女性ファンにはオム・ジョンファが5対5で分けたショートヘアが衝撃的でした。 5集アルバムに収録されたチュ・ヨンフン作曲の『FESTIVAL』は、軽い感じの曲であるため最初はしたくなかったといいますが、大成功を収めた曲ですね。夏場になると到底避けて通れない歌になってしまったのですから。さらに、当時のホームラン記録を塗り替えた野球スターの李承燁(イ・スンヨプ)が本塁打を打つたびに、競技場にこの歌が響き渡ったのですから、これ以上何を言うでしょうか。 5集のタイトル曲『分からない(モルラ)』は、キム・チャンファンが作った歌なのですが、オム・ジョンファはキム・チャンファンからこの曲をもらうために、2年近く三顧の礼をしたといいます。すでに当代最高の歌手として数えられていた歌手が泣訴し、しかもほとんど無名だった歌手キム・テヨンに指導を受けろというキム・チャンファンの指示までを誠実に遂行し、キム・チャンファンが満足したといいます。 トップでも謙虚できる姿勢、万能エンターテイナーが、単に運や実力だけで成し遂げたことではないことが知れる部分でしょう。オム・ジョンファについての話は後編に続きます。 *あまり多くないですって? 当時は韓流が起こる前であるため、純粋に韓国内で販売された分量だからすごいことです。 |