トップ > コラム > 人物 > イム・グォンテク監督「若い監督との競争はしない、私は自分自身を越えたいだけ」

イム・グォンテク監督「若い監督との競争はしない、私は自分自身を越えたいだけ」

「お金だけを追いかける韓国映画は危機に瀕する」 

  • イム・グォンテク監督「若い監督との競争はしない、私は自分自身を越えたいだけ」
昨年の秋、釜山国際映画祭で行われた試写会でイム・グォンテク監督(77)の『ファジャン(化粧・火葬)』(来年春公開)を見て少なからず驚いた。韓国の伝統文化を深く掘り下げてきた彼の102番目の作品が洗練されたミザンセーヌが引き立つ現代ドラマという事実に驚き、傘寿を前にした年齢にもかかわらず、直接、複雑なシーンを統率して映画を完成したという点にまた驚いた。

キム・フン作家の同名小説を原作にしたこの映画は、穏やかな日常の亀裂を扱うにも関わらず退屈なところかなく、快速で流れていく。病気の妻を介護するオ常務(アン・ソンギ)が部下のチュ代理(キム・ギュリ)に対する欲情を抑えて自分と戦う過程が主なプロットだが、男性と若い女性の間の微妙さが終始スリルを与える一方、欲望と節制の間で戦う私達の姿であるように思えて、多くのことを考えさせられる。最近、京畿道盆唐のあるカフェで会ったイム監督は「100本も映画を作ってみると、その枠組みから抜け出したくても、簡単には出来ない」と口を開いた。

「今まで私の映画は、時代に縛られた人間を介して根源的な精神を具現しようとしてきた。日常生活は掘り下げたことがなく、今回は色の全く違う素材にした。今までの形式をすべて捨てて、日常を偽りなく描いてみよう、力いっぱい撮影すれば真実を込めることができるだろうと信じた」

映画は監督の年齢がまったく感じられないほど生気にあふれている。彼は去る1月、約2か月間の撮影中、「風邪を患いながら」耐えてきたと言う。往年には「あまりにも早く撮るため、若い人たちが逃げたしていた」彼であった。変化への渇望が感じられる場面だった。

オ常務は、会社のチュ代理の肉感的なスタイルを目だけで貪っていたが、病院で妻の古木のような体を触って苦しむ。しかし、決してこの葛藤を表に出さない。だからオ常務の内的な葛藤がさらに鮮明で激しく感じられる。

「年を取っても欲望に終わりはない。すべて表現することができすに暮らし、そのように暮らすしかないのが人生だ」とし、彼は「最終的に我慢すること、節制から人生の格調が生じる。そのような美しさがない場合は、この映画にどのような魅力があるのだろうか」とし、「獣のようにすべての欲望を満たすのは人間ではない。人間であることを悩み考えるようにしたので、映画の香りが残るものだ」とした。

インタビューを要求したとき、彼は出国を控えていた。『ファジャン(化粧・火葬)』の試写会が開かれたキューバに行ったあと、シンガポールに渡る。シンガポール国際映画祭は、生涯功労賞の受賞者に監督を選定した。長期間の飛行が大変ではなかったかと尋ねると、「時差ぼけに慣れてはいないが、耐えなければ」と言った。

簡単な回答からは、長い年月を支えてきた決断力と忍耐力が染み出ていた。6・25戦争(朝鮮戦争)後、釜山の入口で米軍のブーツを出して売っていた彼は、知人の紹介で上京して映画の世界で下働きになる。盗み見て学んだ演出技術で1962年に『豆満江よさらば』でデビューする。監督料で酒を飲んで再び撮って、再び飲む生活の繰り返しだった。ほとんどが米軍映画をコピーする作品だった。彼は60年代にのみ50本を撮った。彼は「再びあの頃に戻るとするなら、絶対にそうのように学ばないだろう」としながらも「安いフィルムではあったが、毎作品、命運をかけて撮った」とした。

1980年代、現場で得た経験は、芸術の基礎になって実を結び始めた。『シバジ』がベネチア映画祭主演女優賞を受け、90年代には『将軍の息子』3部作、『風の丘を越えて/西便制』などで興行を続けた。102本のうち特別な意味で残った作品は、大韓民国で初めてカンヌ映画祭に招待された『春香伝』(2000)だ。

「私の映画人生の中で最も…」

口を開いた彼はこの作品の数々の意味を一言で説明する単語が見つからず、しばらく考えた。

「興行は惨敗したが、多くの試みが盛り込まれた映画だった。当時、アメリカ実験映画のゴッドファーザー、スタン・ブラッケージ監督(1933-2003)がその年の公開作の中で最も前衛的な映画として、世界の人々と共有しなければならないと評したことを覚えている」

今、韓国映画は、ハリウッドが感嘆するほど質的・量的に成長した。一年に劇場を2億人が訪れ、今年の夏には1700万人が見た映画(『鳴梁』)も誕生した。韓国映画の胎動期から52年間、現場の中心にいた彼は、「1000万の時代が来たが、韓国映画が発展したわけではない」とした。

「1000万映画を狙って興行しそうな要素をことごとく引き出して作る奇妙な風潮ができた。金になる映画に資金が集まり、しっかりとした監督が動員される。赤字を出しても、作品が良ければ作ることができる環境が造成されなければならない。映画が真実を放棄すれば、その時は終わりだ」

テーブルの上に彼の携帯電話が見えた。スマートフォンだった。 「テキストでメッセージをやり取りするのも疲れて、通話機能のみを使用する」という彼は「今になって映画技術の発展についていこうという考えはない。これは、若い人たちの世界」とした。 「ただ、私が作って来た作品を越えることができるように努力するだけ。最終的には年月が蓄積して知りえた真実の力を逃さないつもりだ。平凡なことも真実をもって撮れば映画は力を得て転がっていく」

彼はインタビューを終えた後、 龍仁の自宅に帰ると言った。運転手がどこにいるのかと聞くと、直接車を運転してきたそうだ。若かったときに「他の車が前にいることを我慢できなかった」彼は、年を取り速度が出せないことを残念がりながら笑った。 「年齢」に彼を閉じ込めた記者の視線が恥ずかしくなった。

「私のようにこの道が長い人は、ただ正直に撮って観客と会うことができればそれで足りる。ただし、人生そのものを偽りのように撮ることはないだろう。それは映画ではないから」

■ He is…
1937年5月2日、全羅南道長城生まれ。1962年の映画『豆満江よさらば』でデビュー後、60年代に50本余りを撮った。キム・ソンドンの原作小説を映画化した『曼陀羅』、カン・スヨン主演の『シバジ』が世界的な注目を受け、1990年代には『将軍の息子』3部作、『風の丘を越えて/西便制』が大きく興行した。 2000年『春香伝』で大韓民国で初めてカンヌ映画祭に招待されており、アジアで初めてベルリン国際映画祭金熊名誉賞を受賞した。2001年『酔画仙』でカンヌ映画祭監督賞を受賞した。
  • 毎日経済 イ・スンヒ記者/写真 キム・ホヨン記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2014-12-14 17:18:20




      • facebook icon
      • twetter icon
      • RSSFeed icon
      • もっと! コリア