トップ > コラム > オピニオン > [モノの哲学] 鉄条網に閉ざされた私たち

[モノの哲学] 鉄条網に閉ざされた私たち


  • [モノの哲学] 鉄条網に閉ざされた私たち
幼い頃、町内で一番高い塀を構える大きな家があった。町内の人々と交流がなく、誰が住んでいるのか気になっていた家だったが、高い塀の上には鋭い鉄のトゲがある有刺鉄線をコイル状にして四方に配置した鉄条網が張り巡らされていた。鉄条網の隙間には赤いバラが顔をのぞかせていた。美しいバラ庭園を持っているわけではないのかと思うほどバラは静かであり、ツタのように高い塀の上までバラの花は咲いていた。この家の前を通るたびに四方に防御壁を作った鉄条網とその隙間から顔を出すバラの花を同時に見ることになった。この風景の中の花は外に脱出したいと絶叫する囚人のようだった。花は美しかったが、花の表情は悲しげだった。その家の鉄条網を取り外したかった。ただそのバラを「助けて」やりたくて。

最近の動物園は私が幼かった頃に見た壁に比べて、より広い開放感を確保できるようにしているが、動物を「囲っている」という事実そのものが変わったわけではない。鳥や猛獣の檻の中にはトゲは出ていないが鉄をジグザグにしてひし形の鉄条網をつけた檻がある。塀とは違い、鉄条網はその内部が見える。ジグザグ織物のように張り巡らされた鉄網の間から動物がぼんやりと立ったり座って退屈そうな表情で鉄条網のこちら側の私を見つめている。野性を失ったような目は気だるそうであるが、この垣根を抜け出して自由になろうとする生命の本能そのものが削除されているわけではない。

ある動物園で鉄条網の隙間から覗いたチンパンジーと目が合った瞬間、檻の外に出ようと高い塀の上まで上り鉄条網にひっかかって外の私を恨めしそうに見つめるあのバラを思い出した。

今はなくなってしまったが、東海の美しい絶景が続く海岸線全体に半世紀以上鉄条網が張り巡らされていた。東海岸に沿って車を運転しようとすれば、このモノによりあちら側の風景はより遠のき、胸を締め付けた。

臨津江に続く漢江の川筋付近の自由路は今も鉄条網が張られている。運転中に突然現れる鉄条網を見れば胸がぐっと締め付けられる。その向こうには毎日世界でもっとも美しい夕日のドラマが繰り広げられている。

私が見た鉄条網の向こうには日々美しい生命があった。だからひとつの逆説を知らず知らず知ることになる。閉ざされているのは鉄条網の向こうではなく、鉄条網をつけたこちら側の私たちであることを。
  • 毎日経済_ハム・ドンギュン文化評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-09-11 16:35:03




      • facebook icon
      • twetter icon
      • RSSFeed icon
      • もっと! コリア