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[モノの哲学] 木のフェンスは何を保護しているのか


  • [モノの哲学] 木のフェンスは何を保護しているのか
心遣いが質素な美術館学芸員のガイドで1本の「木」を見るために、小さな町を訪れた。朴壽根(パク・スグン)という巨匠がいつも心に置いていた木で、その近所では「パク・スグンの木」と呼ばれている。心のよりどころとなる対象がある。作家にとってその対象は芸術家的なインスピレーションの源泉となる。ゴッホにとってひまわりがそうだったように、イ・ウンノにとって洪城の山がそうだったように。

木は大きくなかったが、寛容で気品のある構えで立っていた。パク・スグンの絵を見た人なら、画家に似た木という考えを持ちそうだった。問題は場所だった。木はアパートが建てられた土地の丘の端に立っていた。長年、本来は木がその土地の所有者であったと思われるような場所だったが、今の木は建築物と建築物との間にできた小さな隙間でようやく耐えていた。もちろん気品を失ったのは木ではなく、その場をそのような場所に追いやった、この時代の人間中心的で、無感覚な人工的な企画だ。木はその場で以前には、芸術家にインスピレーションを与えていたが、工業化以来、私たちが作ってきた暮らしの人工企画がいかに不寛容であるかを証明するかのように、そこに立っていた。

私がその日、新しく認識するようになったのは、もう一つのモノに関することだった。その木の近くに行ってみると、誰だれの画家の木だという立て札と一緒に、その木にそれ以上訪問者が近づくことができないように、四方が鉄で作られたフェンスが張りめぐらされていた。このフェンスは、韓国のどこに行ってもよく見かけることのできる「保護」フェンスだった。

多くの場合、旅行に行くと、古い木や意味のある木を見ることになるが、そこには木と一緒にこのような木を「保護」する鉄で作られた長方形の「木のためのフェンス」があることを見ることになる。そのようなモノに、人間の善意がまったくなくはないだろう。

しかし、私がその日見た木が立っている場所を同時に考えてみる場合、このような人間中心の善意が、肝心の木自身にとって何の意味があるのだろうか。本来の土地の居住者から広大な土地をすべて奪い、移住してきた白人が作った「インディアン保護区」はアメリカにみあるのではない。「保護」を名目としたこの時代の多くのモノと制度は何であり、誰を保護するものなのか。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-10-23 16:15:32




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