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キム・ヒエ&コ・アソン&キム・ユジョン主演「優雅な嘘」

ブラックリュミエールの映画裏返し「優雅な嘘」...私に嘘をついてみて、大丈夫だと 

「私たちはこのように言いながら相手を傷つけるでしょう。賞賛はベースに、傷はポイントで。人々は大体ポイントを記憶する。たとえば“彼女は優しい。だが少し気難しい面がある”と言えば、私たちは気難しいをより記憶するじゃないですか」映画の台詞だ。相反する二つの単語、「優雅」と「嘘」。この二つの単語が一箇所で使われる瞬間「優雅な」をベースに、そして嘘をポイントに記憶する。そうだ。この世に優雅な嘘は無い。

  • キム・ヒエ&コ・アソン&キム・ユジョン主演「優雅な嘘」
30分後なら、シワになった制服を丁寧にアイロンがけしているチョンジ。そして母に「私にMP3買ってくれないかな?」と慎重に聞く。母は「後で買ってあげる」と何気なく言って、朝ごはんを食べたお皿を食器だらいに浸しておくという言葉で、愛している娘とこの世で最後の会話を交わす。誰も知らなかった。いや、見当もつかなかった。そうやって愛する娘であり、妹のチョンジは、この日自分で編んできた赤いマフラーを首にかけた。いったい何故そうしたのか?その苦痛な疑問は今残されたものたちの役割となった。

親は地面に埋めて子供が死ねば、親の胸に埋めるという話がある。これよりもっと悲しくて強烈な表現があるだろうか。チョンジ(キム・ヒャンギ)の母ヒョンスク(キム・ヒエ)は、姉マンジ(コ・アソン)のつまらない駄々に首を結ぶ。「胸に秘めて、その上にセメントでどんなに分厚く塗っても子供はもぞもぞ出てくるよ」。悔恨だ。普段「大丈夫?」という言葉一言をなぜそんなに惜しんだのか。

映画は導入部10分にすべてのことを見せる。そして残りの時間はその悲しみの正体を、またその根強い悲しみをどうやって治癒するのかを見せる。前作「ワンドゥギ」を通して「人の覗き見」を何気ないように穏かに繰り広げたイ・ハン監督、キム・リョリョン作家はチョンジの姉のマンジを通して観客に悲しみを強要することも、傷を咎めることも、そして治癒の縫合を説得することもしない。

マンジはシックだ。他人のことに無関心で家族でさえそれほど親切でない。妹が残した5つの封印された「悲しい理由」を解いて行きながら、マンジの心と体は徐々に客席に移動する。友達姉妹のやるせなさを通して、普段無関心だった自分を責めて、妹チョンジがおくったその無数の「お姉ちゃん、私疲れた」という救助要請を読み取れなかった自分の胸を打つ。そしてむせび泣く。「お姉ちゃん大好き」という妹の文字を読んでは、あまりにも申し訳なく、あまりにも薄情で、その瞬間残された家族の「優雅な嘘」は、積もりに積もった仮面を投げて素顔を現す。どんなにたくましく生きても、どんなに痛くないふりをしても、傷は当然カミソリで切られたようにヒリヒリ痛む傷が残ることを、私がいじめられることを恐れ誰かをいじめるようになる共犯だったということを。自分を合理化するため私たちは何故こうも多くの「優雅な嘘」をつきながら生きるのか。

映画はこれまであまりにも多く取り上げられ、感動が無いかもしれない素材である学校内のいじめ問題を扱った。それでもこの多くの大人たち、つまり先生・教育庁関係者・マスコミ記者・警察・様々な姿の父母などが登場しない。かわりに、チョンジをいじめで追いやるファヨンの親が運営する中華料理店でチャジャンミョンを注文し食べるヒョンスクの復讐を、ファヨンに「お前チョンジにいったいどんなまねをしたんだ」と絶叫するマンジの凄絶な叫びだけを残す。そしていつの間にかいじめになりチョンジに会いたいと涙を流すファヨンに肩を出してくれるマンジの許しと治癒、その本当の大人っぽさを見せる。

21年ぶりに映画に登場したキム・ヒエは、演技の教科書らしい精製された演技を見せる。コ・アソン、キム・ヒャンギ、キム・ユジョンの3名の美しい組み合わせと独特なユ・アイン、ソン・ドンイルの姿は、まるで季節の食べ物のように似合って演技本来の味を鑑賞する喜びを伝えてくれる。

■ライターのブラックリュミエールは
「試写会マニア」として平凡な職場生活をしながら命をかけて試写会を追い回すフィルムストーカーだ。生涯初のシティライフを通じてコラムニストとしての挑戦を始めた。一方「リュミエール」は世界初の映画「列車の到着」を作る兄弟の名前である。
  • ブラックリュミエール(フィルムストーカー)
  • 入力 2014-03-26 09:29:01




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