A. | まずは下の表を見て見ましょう。
韓半島(朝鮮半島)を日本が支配していたときにも、歴史教科書は検定制でした。韓半島で近代的な教育が始まってから、1973年までずっと学生は検定教科書で歴史を勉強してきたということです。 維新政府が「国籍のある教育」を強調しながら、教科書の国政化作業が始まりました。最初のステップは、当時11種にもなった歴史教科書の単一化作業でした。 1973年2月、政府は国史教科書に維新の精神を反映して、セマウル運動と輸出増大の内容を補強するなどの改編指示を出しました。1カ月後には教科書を作っていた出版社の代表者と著者らが連署で合意書を作成した後、単一本の発行を政府に提案する形式が出されます。 このような過程を経て出てきた単一教科書は国定と違わないものでした。これでも足りず、翌年からは完全に政府が主導する国定教科書が出されます。もちろん当時も歴史学者と教師の反発がありました。しかし、維新体制を批判すると捕まってしまう局面で、力のない学者たちの反発が国政化を防ぐことは難しいものでした。 維新体制が崩れた後もしばらくの間、国定教科書が維持されました。 歴史の本が全面的に検定体制に復帰したのは、2011年に入ってからでした。わずか5年前のことです。この5年間、保守陣営は絶え間なく歴史教科書が左寄りだという攻撃を緩めませんでした。 2008年9月にはニューライト勢力が金星(クムソン)出版社が出版した近現代史教科書が左寄りであると直撃弾を飛ばしたりもしました。保守勢力は、当時の検定体制で発刊された近現代史部門も国定に戻したかったのでしょうが、歴史教科書が全部検定教科書に変わったため、彼らの立場からは痛憤する情況だったことでしょう。 検定制に転じた後、多くの歴史教科書が出てきたのですが、保守陣営の目線からはことごとく満足できないものでした。ニューライト系のいくつかの歴史学者たちは、自分たちが直接教科書を作ると言いだし、韓国学中央研究院のクォン・ヒヨン教授などの筆陣で教学社(キョハクサ)教科書を作成しました。 しかし、独裁者を美化したという論議はともかく、内容が不十分で、この教科書で勉強をしてしまっては大学入試で落ちるといった言葉も飛び交いました。京畿道の教育庁では、この教科書を分析した後「右翼偏向と事実関係に間違いがある」という意見も出しました。 2013年10月、教育部は8種の韓国史教科書で829個の間違いを発見して修正指示を出しましたが、このうち、教学社の教科書が占めた割合が30%にもなりました。このようなことから、学校の校長が教学社の教科書を採択するのは難しいことだったことでしょう。
せめて10%ほどの学校だけでも教学社の教科書を採択していれば、国政化論議はなかったのかもしれません。しかし、この教科書が市場で惨敗した後、保守陣営は外圧により教科書採択が撤回されたと主張して、教育部も撤回の過程に外圧があったという調査結果を発表しました。 この調査結果が発表された日、与党では歴史教科書を国定に戻すことを検討するという立場を発表しました。 市場の論理を重視するニューライト勢力が教科書の問題に限っては徹底的に市場の論理を排撃しているわけです。とにかく、教学社の教科書発行と一部の学校での採用と撤回が国定教科書の推進に名分を与えたことは明らかです。 ※この記事は「韓国の国定教科書問題はなぜ起きたのですか?(中)」へ続きます。 |