A. | 一歩遅れて演技者の夢を育てる人もいますね。何の不便もなく通う会社を蹴り、オーディションを受けて回れば家族たちは「お父さん、狂ったの?」と。やりきれないでしょう。 「やりたいことをしてください」 家族の応援を受けて成功した俳優も稀にいることはいます。 20代前半に早いうちからデビューしたからと職業欄に「俳優」と堂々と書ける人もそれほど多くはないですよね。端役を転々としてみると糊口を凌ぐために飲食のデリバリーをしたり、ガソリンスタンドでガソリンを入れたりと、とにかくお金になる仕事をしなければならないでしょう。 ソウル芸術大学を卒業した直後から演技生活に飛び込んだラ・ミラン(羅美蘭)は、ガソリンスタンドとマートの試食コーナーなどを転々としながら、さまざまなアルバイトをしました。 女優ユン・セア(尹世雅。本名キム・ボヨン)も7年間の無名生活をし、200対1の競争率をくぐって、映画『血の涙』のオーディションを通過しながら演技者の人生を生きることになりました。ユン・セアはオーディションで韓服を着て仮面舞踏を踊り、途中でスカートが脱げてしまったのですが最後まで演技をしたため合格できたといいます。 話のテーマに戻って俳優たちの前職を調べてみると、本当に珍しい職業を持つ人もいます。 SBSドラマ『ひと夏の奇跡~waiting for you』などに出演した女優イ・スリョンがおそらく代表的な事例ではないかと思います。イ・スリョンは梨花女子大学英文科を卒業した後、空輸訓練などを受けて大統領警護室に勤務していた女性です。警護官時代にアラブ首長国連邦の皇太子を警護し、プロポーズを受けたこともあるといいますね。 しかし、4番目の夫人だという話を聞いて王妃の夢をしまったそうです。
KBSドラマ『また、初恋』で主役を演じた俳優キム・スンス(金承洙)は、27歳でMBCタレントとして入るまではスポーツイベント事業を繰り広げていた実業家でしたね。大学で体育学を専攻したため、そちらがどうしても適性に合うようでもありますね。 演技者としてデビューした理由は、路上キャスティングも受け、教育実習に行ったところ女子高生から信じられないほど多くのラブレターを受け取ったためだといいます。周囲から一度してみろと仕向けたのです。端役を引き受ける中、日曜日の朝ドラマ『愛しか私は知らない』で初めて固定配役を引き受けましたが、12話目で降板する屈辱を味わったそうです。
春川機械工業高校を出たウォンビンは少しの間ですが江原道市内にあるカーセンターで自動車修理工として働いたことがあるそうです。
33歳の年齢でミュージックビデオを撮って芸能界に入門したユン・サンヒョン(尹相鉉)は演技とは距離のあった俳優ですね。粉食店(トッポッキなどの粉もの料理を出すお店)と服の商売をしながら暮らしていました。粉食店で女子高生の心をときめかせていたユン・サンヒョンは、日本の俳優木村拓哉に似た外見で芸能事務所にピックアップされました。 最初は歌手としてデビューするためにボーカルトレーニングを受け、実際に4人組の男性グループのメンバーになったものの、ドラマ作家と監督からキャスティングが入って俳優としてデビューしました。 2005年のドラマデビュー作が『100万長者と結婚する方法』ですが、晩年の新人が最初から主演に抜擢されました。破格的なキャスティングについてカン・シンヒョ監督は目つきが気に入ったといいますね。
俳優ユン・ヒョンミンは野球選手出身ですね。高校3年生の頃、全国大会の準決勝で10打数6安打5打点を記録し、チームを勝利に導き、この時に印象を残したおかげでハンファ・イーグルスの指名を受けてプロ野球選手になりました。しかし、プロの舞台であまり頭角を現すことができませんでした。ハンファから斗山(トゥサン)に移った後、彷徨をする中で小劇場で『キム・ジョンウク探し』という演劇を見た後、演技者の夢を抱いてユニフォームを脱いだそうです。 野球を辞めた後、2カ月間アルバイトをしながら持ちこたえそうです。保守的な家庭であるため野球を辞めたという話を切り出すのが難しかったのでしょう。父親はラグビー代表選手を務め、母方の叔父はプロ野球監督を務めたスポーツ一家であるだけに野球を辞めてきたと話しずらかったことでしょう。それでも母親が中央大演劇映画科出身であるため、母親を信じるものがあったのでしょう。 たびたびオーディションで不合格を受けていたユン・ヒョンミンは、大学路ミュージカル『キム・ジョンウク探し』を通じて演技者でデビュー、その後地上波とミュージカルを行き来しながら活動しています。
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