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[モノの哲学] ヘアドライヤーは都市人の追い風


  • [モノの哲学] ヘアドライヤーは都市人の追い風
季節の変化が訪れる頃、風は奇妙だ。だいたい風は春から夏へ移りゆく時より、冬から春へ移っていく劇的な季節の変わり目がより気まぐれだ。花冷えが訪れる頃には風の強さや方向は往々に、そして今日と明日やにわに予測が難しい。

おそらく風が穏やかになるその頃になってようやく塀と川辺道路は幼稚園の子供のように歓声をあげるレンギョウが満開になる。初恋の虚無を発散する桜のピンク色の陰下を都市人が歩いている時間にも風はそうであろう。

しかし、都市の風は「順風」にはあまり感じられない。都市は人工の摩天楼を築き上げ、土地を必要な方式と材料で包装する。様々な違う目的のために存在するモノと、異なる方向に歩いている人々と、別の理由で造られた家のコラボレーションだ。

それゆえに都市の内部を横断する「風」も、ひとかたまりの自然な風というよりは、人工地形的な要因によって削られ、撹乱して屈折され、部分的に散らばって組み合わせたりもする。都市の風から私が感じるのは、風がひとかたまりの暖かかったり、涼しい「自然な」風ではなく、神経症的だというものだ。

市内で最も「自然な風」は、どこでどのように吹いているのだろうか。偶然に髪を洗った後にヘアドライヤーで髪を乾かしていた最中にこのような考えをするようになった。自然では自然のものが、人工的な世界では人工的なものが「自然な」ものではないか。「キッチュ」(Kitsch)は、自然に粗雑な人工が入る時、人工に気障りな自然を結合したときに発生する。そのような点から見ると、「ヘアドライヤー」は都市の日常の中で最も「自然な」風ではないか。

人工とは「自然と絶縁した」という意味だ。人工は、季節の変化のような「自然時間」に乗ってはならず、自然の地形を克服しなければならず、使用可能な目的のためにいつも動員することができる任意性と、性格の一貫性を持っていなければならない。

ヘアドライヤーの風は一貫性のある強さを持っており、方向は一方向だ。このモノが「生産」する風は、風が吹いて過ぎていくための一定の自然空間を必要としない。高気圧や低気圧のような気圧の差や気圧の谷がなくても、風は小さな浴室の小さな穴からすぐに生成される。この人工的だが、都市的には「自然な」風の最大の欠点は、とても「うるさい」ということだ。それにもかかわらず、都市人の洗った髪にモノが作る風は必須だ。

ヘアドライヤーが壊れて「そのまま」髪を乾かして出勤する途中やヘアドライヤーを取り揃えていない女性の旅路ほどに、自分の外見に小心になる日はないだろう。都市人には都市の「順風」、都市人の「自然」がまた別にあるわけだ。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文化評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-04-03 15:53:24




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