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捨てられた子どもたちの代母、ホルト付属医院のチョ・ビョングク名誉院長

「海外に養子として送った子どもたち…立派に育ってくれてありがたく、訪ねてくれば歓迎」 

    △ホルト付属医院のチョ・ビョングク名誉院長が病気を患っている子どもの健康をチェックしている。 [イ・チュンウ記者]

    去る16日、京畿道一山にあるホルト一山福祉タウンでホルト付属医院のチョ・ビョングク名誉院長(82)に会った。きれいなおばあさんだった。80代だとは信じられないほど肌のきめが細かかった。50年以上を透明な魂で子どもたちとともに過ごしたからではないか、そんな考えが浮かんだ。チョ院長は、ここに設けられた「モリーの家」に滞在している。ゲストハウスを改造したところだが、ここの一部屋でホルト財団の創設者(故)ハリー・ホルト(Harry Holt)氏の娘、モリー・ホルト(Molly Holt)氏(80)と一緒に過ごしている。1976年から続く長い縁だ。彼女は、ここホルト児童福祉会付属医院で定年を2度迎えた。1993年の60歳のときに定年退職した。捨てられた障害児の面倒を見てケアするきつい仕事をこうして終えるのかと思っていた。後任者が現れなかった。だから戻って来た。以来、15年以上働いて2008年にふたたび退いた。彼女は正式には定年退職をした状態だが、まだここで仕事をする。ひ孫ほどになる障害児の健康状態を見る仕事だ。チョ院長は「これからも健康が許す限り、この仕事をすることができたらと思う」と述べた。

    引き裂かれた医学部入学願書

    チョ院長は1933年に平壌で7人兄弟の長女として生まれた。まともな医薬品ひとつすらなかった1940~1950年代に彼女は医者になることを決心した。戦争と避難の苦痛の中、大人はもちろん、多くの子どもたちがあまりにも簡単に命を落としていたときだった。チョ院長も弟と妹の2人が病魔と戦って命を失うのを見守らなければならなかった。彼女はまだ葬儀について覚えているという。友達と一緒に妹が眠っている御棺に布をかけたことが思い出されるという。チョ院長は「避難途中、死んだ母親の背中に負われて泣いていた子どもを見て、医者になることを決心した」と述べた。

    自分自身も子どもの頃、つねに病気で苦しむほど虚弱だった。学校や病院を交互に通っていたほどだった。振り返ってみると、病院に自分の家のように出入りして慣れていたため、医師という職業を大きな負担なく受け入れたようだった。

    しかし、医師の道は簡単ではなかった。「女医」に対する認識すらなかった時代だった。「父が『女性も教育を受けなければならない』と多くの支援をしてくれた。そんな父でも『女性が医者になるなんて』と医学部への入学願書を引き裂いてしまった」

    彼女は引かなかった。死んだ弟や妹、倒れた母親の背中に負われて泣いている子どもたちが何度も目に浮かんだ。他の道はなかった。父親のハンコを偽造して医大に願書を提出した。「入学面接時に、乳児死亡率を下げてみせると自信を持って言った。最初から小児科だけを考えていた」

    ようやく入った学校で思わぬことに巻き込まれた。当時、首都医科大学(現高麗大医学部)に進学したものの、学生らの教授退陣運動に巻き込まれて、学校を辞めざるを得なかった。 2年後の1954年、セブランス医科大学(現延世大学医学部)に編入してようやく学業を終えた。

    国際乞食、不満ばかりの女性

    1962年、小児科専門医の資格を取得した。ソウル市立児童病院が最初の職場だった。施設は劣悪で、子どもたちは相変わらず苦しんでいた。病床が不足していた。ひとつのベッドに多ければ4人を寝かせた。洗濯設備が整っておらず、衛生的なおむつは考えることさえできなかった。赤ちゃんがひとり咳や下痢でもすれば病棟のすべての子どもたちが病気に悩まされる日々が続いた。

    ソウル市が児童病院を市立嬰児院と合併した。状況はさらに悪化した。児童病院の病床数は80個程度に過ぎなかったが、生まれたばかりの赤ちゃんまでが加わった。年間の患者だけで2000人に迫った。チョ院長は「児童病院で見ていた子どもたちだけでもいっぱいいっぱいだったのに、新生児700~800人を一度に預けられた」とし「インキュベーターもなかった時代だったため、なすすべもなく命を失う赤ちゃんが多かった」と話した。

    子どもの死亡診断書の作成が一日の主要な業務の一つとなった。「ちゃんとした治療を一度も受けられずに亡くなった子どもの死亡診断書を書くときほど辛い瞬間はなかった」

    やめたいという思いが頭の中で絶えずぐるぐる回った。仕事が大変だったからではない。条件が揃わず仕事ができないとき、彼女は辛かった。病院の子どもたちにお粥でも食べさせようと個人の資金をはたいて三四日に一度は卵100個を買った。7年をまるまるそのように過ごした。経済的負担が大きくなったため、それも辞めざるを得なかった。

    それでもあきらめなかった。外国の救援団体に「助けてくれ」とお願いした。韓国政府にも施設を拡充してくれと訴えた。ある日、政府の関係者が眉間に深いシワをつくり、彼女のもとに訪ねてきた。その人は、「これ以上、外国人に助けを求めるな」と警告して帰っていった。韓国政府は、彼女を「国際乞食」「不満ばかりの女性」と呼んだ。

    孤児輸出国1位という非難

    人はどれほどまで邪悪になることができるのだろうか。ある日、回診中に一人の男性が子どもの首を絞めているのを見て身震いしながら驚いたことがある。捨てた子どもが病院で生存していたことを知って再び殺そうと訪ねてきた男性だった。「捨てたことにも足りず、自分が産んだ子どもを殺すために首を絞めているのを目撃しながら、人間に対して本当に憤慨した」

    乳児遺棄を防ぐために、ありとあらゆる方法を試みた。チョ院長は「警察と一緒に乳児遺棄を発見して処罰する案など、いくつかの対策を構想した」とし、「しかし、生まれたばかりの子どもを入れたスーツケースをトイレに置いて行く親を見つけることはできなかった」と述べた。

    そこで見つけた方法が養子縁組だった。新しい親を捜して、捨てられた傷を愛で癒してあげようと考えた。子どもたちが愛される場所であれば、外国でも構わないと思っていた。いろいろな養子縁組機関を探し回った。ホルト児童福祉会が最も早く回答をくれた。

    1976年、ホルト児童福祉会所属の医師に席を移した。親に捨てられた子どもたちを診療して、養子縁組を積極的に助けた。チョ院長は「最初は、子どもたちが新しい居場所を見つけることができるのか、もしかしたら養子縁組後に問題が生じないか心配だった」としながらも、「体が完全ではない子どもたちも養子縁組されているのを見て、安堵感を持ち始めた」と述べた。

    後日、彼女に返ってきたものは非難だけだった。児童病院が子どもを外国に売っているという非難が沸き立った。1988年のソウルオリンピックを控えて「世界1位の孤児輸出国」という汚名を洗浄するために、「国外養子縁組前面禁止令」が下されたりもした。後に国内の養子縁組需要がとてつもなく不足していたため、その措置は最終的に撤回されてしまった。捨てた子どもを再び殺すために病院を訪れて首を絞める親、捨てられた赤ちゃんを受け入れきれないにも関わらず、恥ずかしいからと国外養子縁組禁止令を下す韓国政府にチョ院長が応酬した。「子どもが捨てられなければ養子縁組機関が存在する理由はない。非難だけではなく、政府高官が捨てられた子どもを一人ずつ連れて行って育てればいいではないか」

    やりたかったことを懸命に行いながら、生きてきた

    外国に言った養子たちは最近も「ドクター・チョ」を探してチョ院長のもとを訪ねてくる。「9歳のときに障害と貧困のため親に捨てられ、ホルトにきた子どもがいた。脳性麻痺を患っていた子どもだったが、米国に養子縁組で行き、医大生になった。後に私のもとを訪ねて来たときは、本当にうれしかった」。その子はホルト福祉会のボランティアでパートナーに出会い結婚した。2番目の娘の名前をモリー・ホルト氏とチョ院長の名をとって「モリー・ビョングク」と名付けた。チョ院長は「数日前にもノルウェーに養子縁組されて、幼稚園の先生になった子どもが、その子どもと一緒に訪ねてきた」とし「1年に7~8人程度が訪れるが、来てくれると嬉しくて、立派に育ってくれたことが有難く、自分のルーツを探そうとしてくれたことに感謝する」と述べた。

    彼女は大変だった記憶よりも、満足して感謝する記憶がより多く残っているという。苦しいことがあるたびに助けてくれる人たちのおかげだと言った。チョ院長は「モリー・ホルト理事長をはじめとして、ドキュメンタリーを見てボランティアをしに韓国に来てくれたスイス人、病院に不足している物品を調達してくれる多くの機関など、謝辞をする相手は数え切れないほど多い」とし「常に周りに有難い人々がいたため、このようにすることができた」と述べた。

    有難くも、いつも申し訳ない人は別にいる。常に援軍になってくれた、夫と子どもたちだ。夫は漢陽大学九里病院の院長を務めた故キム・ソンゴンさん。耳鼻咽喉科専門医で、最も頼りになる存在だった。チョ院長は「退職後、夫と一緒に無医村を周って医療ボランティアをしようと言っていたが、先立ってしまったためにその約束を守ることができずに申し訳ない」と述べた。彼女は「自分の子どもたちにとっては約束を守らない母親だったが、自立精神が強く、明るい子どもに成長してくれて本当に感謝している」と述べた。

    先日、中外学術福祉財団星泉賞の受賞者に選ばれ、彼女の善行が広く知られた。だからといって日常は変わっていない。

    チョ院長は今日も親に捨てられた子どもたちの健康を見守る。

    「過去に戻ってもまた同じように、この仕事をするだろう。今まで、やりたかったことを懸命にしながら生きてきた。会うことができない人々から多くの助けを受けて、また別の人には新しい機会を与えることができた。つねに感謝だと感じている」

    ■ She is…

    △1933年平壌生まれ △1958年延世大学医学部小児科専攻卒業 △1959年ソウル市立児童病院小児科勤務 △1976年ホルト児童福祉会付属医院に勤務 △1993年ホルト児童福祉会付属医院の院長から定年退職 △2008年ホルトで15年の追加勤務後、再び退任 △2010年~現在、ホルト一山福祉タウンで障害児診療奉仕
  • 毎日経済 キム・ミヨン記者 | (C) mk.co.kr | 入力 2015-07-24 16:11:26