A. | まずは、ドラマ『イカゲーム』でキリスト教と関連した場面から見てみましょう。まだドラマを観ていない方にはネタバレになるのではないかと心配でもありますが、放送されて結構長い年月が経ったのでネタバレになっても説明しようと思います。 1番目に登場する教会の人物は「祈るおじさん」。 「牧師の父親が自分に性的暴行を加え母に暴行を振るった後、悔い改めた。ある日、学校から帰ってきたら母親を殺したナイフを持っている父親を目撃した。その日は悔い改めの祈りをしなかった。怒りをこらえきれず、その人間を殺し刑務所に収監された」 ジヨンの話はキリスト教信者としては本当に耳を塞ぎたい内容です。 イ・ジョンジェが縛られたまま街に捨てられると縛られた紐を緩めてあげます。ここまでは善良なサマリア人のようです。しかし、決定的な一言で台無しになります。 「イエスを信じてください」 「けがはないですか?病院に行かれますか?」ではなく「イエスを信じてください」です。 この3つの場面に世間のキリスト教=ケドッキョ(意味:最低なキリスト教)という等式がそのまま解釈されています。競争社会で生き残るために人を踏みにじったり上がる極悪非道なことも躊躇せず表では罪とは程遠い信仰者と包装する偽装術、草の葉のような衆生を救済するために牧会に出た牧師たちが各種犯罪の誘惑に陥ってしまった現実です。それでも一様に「イエス天国」だけを叫びます。 このようなシーンが登場したからといってドラマを「反キリスト教」とは言い難いです。一部では、むしろドラマ『イカゲーム』がキリスト教哲学の粋を盛り込んでいるという意見を示しています。 問題の場面は反キリスト教ではなく堕落した牧師であり信仰とはかけ離れた信者たちの生き方、イエスの教えとはかけ離れた距離の伝道にこだわるという主張です。 『イカゲーム』とキリスト教の平行理論という言葉も出ました。 平行理論? 少し説明が必要です。 『イカゲーム』の主役は1番の男(一男(イルナム)、オ・ヨンス)と最後の参加者456番ギフン(イ・ジョンジェ) この2つがアルファとオメガです。 イルナムはゲームの設計者であり主管者です。昔、韓国で長男によく与えられた「男(ナム)」という名前は、キリスト教神学でいう「一者」を連想させます。「一者」は神様と同格です。 そのため、イルナムがゲームに参加したという事実は神様が苦しむ人間と共にしようと自らを低めて人間世界に降りてきたという意味にも解釈できます。人間事に口を挟まないですが、人間とともに苦しみ、罪に染まった人間と同行する神ということです。
ドラマの中でイルナムの行動に特に注目すべきところがあります。 劇中でゲームを続けるかどうかを問う投票が行われますが、キャスティングボートをひっくり返したゲーム設計者のイルナムは「継続」ではなく「中断」に票を投じます。その後、参加者は純粋に自由意志でゲームの世界に戻ってきます。 キリスト教聖書には「おいしそうで賢くなれるため皆が欲しがる実」と言われる善悪の知恵の木を作っておいて「絶対に食べてはいけない」という神の厳命が浮かび上がるでしょう。誘惑に耐えられなかったイブは結局善悪の知恵の木の実に口を当て以後、人間は原罪を背負って生まれるようになりました。 最後の参加者ギフンはこんな世の中から捨てられた他者です。自由意志はともかく、まともに抵抗もできずイカになってしまった実存的人間です。 1番と456番は再び遭遇します。クリスマスイブにです。本当に色々な思いがする日ではないですか?もしかしたらイルナムがキリスト教的な一者を標榜するという平行理論により、気分を悪くしたキリスト教徒をさらに苛立たせるのではないかと心配になったりもします。 ただ、ドラマ『イカゲーム』は見方によって別の解釈もできるので「反キリスト教ドラマ」と決め付けるのは難しいという気がします。 |