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[モノの哲学] 防護服、エイリアン占領軍


  • [モノの哲学] 防護服、エイリアン占領軍
すべての服には、ボタンの隙間であれ、ズボンと上着との間であれ、上着の尖端の首の縫い目の部分であれ、あるいはズボンの裾が終わる足首の部分であれ、肌と服の間に空気が入り込む「空気の穴」がある。しかし、ある特殊な服は、服が息をすることも、肌が息をすることも難しく、鉄桶のように頑強な姿をしている。肌が少しでも大気に露出することを遮断するこの服は、異物感がひどく、その服と服を着た人は丸ごと、分離することのできない「一つ」の存在で、見知らぬ星から来た「外界のモノ」のように感じられる。

「防護服」という服は、とても不慣れなため、地球上の服のようではない。SF映画によく出てくる宇宙服とこのモノはうまく区別できない。外観からみれば、このモノの中に人が入っているという事実は、透明なガラスを通じてあらわれる顔の部分を通じてのみ知ることができる。しかし、顔の見える宇宙服の透明なガラスの頭の部分よりも「防護服」はさらに見慣れない。恐ろしい伝染病が猖獗する災難映画で、防護服の顔の部分は、概ね透明ではなく、暗い色のガラスになっている。彼らの顔、彼らの視線は隠れている。

アポロ(Apollo)号に乗って月に足を踏み入れた宇宙飛行士が宇宙服を着た「地球人」という事実を明確に知ることができるのに比べ、伝染病という地球の危険な状況で、どこからか突然現れた彼らは地球人ではなく、地球人を「捕りに」きた他の惑星の宇宙人のようで、ぞっとさせられる。

カミュ(Albert Camus)の小説『ペスト』で、伝染病により閉鎖されて、ゲットー(ghetto)化したオラン(Oran)市で必死に市民を救出する医師のリゥ(Rieux)と新聞記者のランベール(journaliste)が防護服を着ていなかったこととは異なり、映画『風邪(The Flu、2013)』で、京畿道城南市盆唐区に投入された「防疫軍」は、宇宙船のような防護服を身に着けている。映画の中で、防護服 の軍人は、市民を救出するのではなく、鎮圧して隔離して、殺す。汚染された大気にさらされた無防備な市民とは異なる「安全な服」を着て、人ではなく、他の外界の見知らぬ存在のように、生きていない機械のようにモノ化されて、動く。

このような災難映画で防護服の顔は、市民の目から自分たちの視線を遮断しながら、市民に何の情報も与えない、市民のための市民と一緒に行動する、いかなる意志も必要性も感じない存在のように、愕然と行動する。アイロニーなのは、やっと「マスク」をして伝染病の恐怖と戦う市民の前に現れ、外界の占領軍のように動く彼らの防護服は市民の財産(税金)で作られたという事実だ。中東呼吸器症候群(マーズ / MERS)の恐怖が拡散されている今、防護服を着た彼らは誰なのか。
  • 毎日経済_ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-06-05 16:33:32




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