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[モノの哲学] 植木鉢は都市の農夫?


  • [モノの哲学] 植木鉢は都市の農夫?
ある学校の建築学科の授業を参観したことがある。一学期の終わりを迎えながら、学生達がチームを作って、ある地域を共同探求した結果を発表する終講授業だった。この日の発表のうち、印象的だったものは地域の植木鉢に対する探究だった。

その発表は、その地域の家々を尋ねながら、植木鉢と植木鉢が置かれた場所、数と配置方式などを細かく調べていた。発表で使われた写真では、庭がある家、屋上のある家、マンションのベランダ、玄関前、その地域の入口、商店、通りごとに多様な材質と模様の植木鉢が様々な方式で置かれていた。植木鉢ごとに咲いている花も多様で、小さな実のなった植物もあり、白菜のような野菜を植えた植木鉢もあり、草が生い茂っているものもあれば、蘭のように端整な品を誇る小ぎれいな植木鉢もあった。

しかし、私が驚いたのは、植木鉢に植えられた植物の多様さそのものよりも、大きい家で暮らそうが、小さい家に暮らそうが、庭のある家に住もうと、屋上部屋に住もうと、家の室内であれ室外であれ、植木鉢のない家はほとんどないという事実、まさにそれだった。衣食住と直接関連した生存の必須品ではないにもかかわらず、すべての家に存在するモノがあるとしたら何だろうか。「植木鉢」は、まさにそんなモノのひとつではないか。そうであれば、すこし大げさに言うならば、「植木鉢を置いた場所」は家の内部空間の配置でも必ず考慮しなくてはいけない建築的な要素の一つだとまで言うことができるのではないか。しかし、ここには但し書きがつく。農村の家は例外だと言う事実。都市に比べて農村では植木鉢を置く家が多くはないからだ。

こんな新たな驚くべき観察は、現代的な暮らしの風景に対して一つの劇的な矛盾を浮き彫りにさせるのではないか。植木鉢に入っているのは花と植物だが、その対象が入っている植木鉢は、実は限りなく都市的なモノだという時事をだ。都市の人々は「自然」を家の中に持ち込もうとあらゆる努力をするが、それはすでに都市的な暮らしの補充剤として、もうひとつの変形した人工物であり、実は「自然」ではない。

最近、流行する広告のコピーのうちのひとつに「都市農夫」という言葉がある。自然を失った都市の人はその言葉に胸をときめかせるかもしれないが、「農夫」はそれほど簡単にはなれるものではないはずだ。生態的な暮らしへの真正な回復は、現代的な暮らしの総体的な構造を根本的に方向転換するときに、ようやく可能性が見える、難しいものだということを知らなくてはいけない。「マネ」するだけでは絶対に可能ではないということだ。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-10-16 16:59:42




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