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[モノの哲学] 教科書 - 基本となる人文精神


  • [モノの哲学] 教科書 - 基本となる人文精神
人文学で使う「人文」という言葉は古い言葉だ。紀元前の本『周易』で「人文」は、「天文」と「地文」と似ている系列の言葉で使われる。この単語での「文」は、「文字」を意味するのではなく「文様」と「柄」を意味する。先人たちは、天にも地にも柄があり、自然の柄は生活の柄と互いに連通すると考えた。

イメージの次元で考えてみることは、「柄」だ。柄は一種の「パターン」であり、パターンは一つでは生まれない。パターンは、個別的形状の共存と配置と組合わせから生まれる。だから「人文」は、その言葉の無意識から「複数としての人生」を指示している。「人」ではなく、「人たち」、特殊な個人ではなく、人間群像の様々な考えや生活を集めたら「人文 - 人(たち)の柄」が生じる。この様々な生活の可能性を「通常のもの」として理解し、省察する学問がまさに人文学だ。「人文学」、「人文」に該当する英語の単語が「Humanities」であることも、このような理由からだ。ここでも中核は、単数形の「人」ではなく、複数形の「人たち」だ。

東洋や西洋で昔から歴史学は人文精神の芯と呼ばれる。西洋では、「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスの「歴史(Historie Apodexis)」で最も目立つのは「事実」そのものではなく事実を記述する著者の「態度」だ。一方の文化圏で見れば、とうてい理解しにくく容認されにくい習慣や事実の世界を、著者は一方の視点から非難したり削除せずに共存する生活の様々な姿で淡々と記述する。ルネサンス(Renaissance)を古代ギリシャ人文主義の復活と呼んだとき、その人文主義が指示しているものの一つが、まさにヘロドトスのこのような開放的態度だ。

東洋では、この「開放性」の態度が他の方式で発現される。歴史技術の掟となった「春秋筆法」のように歴史技術の態度は、宇宙の摂理と通じる大義名分に基づいて非常に厳しい批判精神で善悪を問うものだ。これらの人文精神で歴史技術の著者が恐れていたのは、「天の意味 - 天文」と「地の意味 - 地文」であり、権力者の意志や刀ではなかった。

教科書とは「教本」となる本だが、ここで教える内容は特定な権力の意味や私的利益があってはならない。教科書は一時代の人文精神の象徴にならなければならない。人文精神の中核は、様々な複数の生活と考えが存在して可能であり、また可能でなければならないという開放性と包容性だ。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-11-20 16:30:31




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