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[モノの哲学] 廊下、暗い廊下の外には太陽の光が?


  • [モノの哲学] 廊下、暗い廊下の外には太陽の光が?
「もっと真っ暗な日に/彼女があふれた、男の子たちの体の中へ/暗い廊下にある/たったひとつの狭い窓に/月光があふれるよう//また何を盗むことができるか/火が消され、空気は限りなく冷たい中//子供たちの白い首筋に天の川のように長い輝くスカーフをぐるぐる巻いてあげて/黒い電車に乗って、彼女は去った//線の外に体を押し出すのは危険です/ホームのプラカードを倒し/窓の外に胸を出して最後のあいさつをしてくれた」-チン・ウンヨン『ジプシーの時間 』

修学能力試験が終わった。暗い廊下を慌てて息苦しく走ってきた男の子たちは、いや、少年・少女たちは、今、廊下の外へ出ることができるだろうか。外には彼らがそれほどまでに待っていた青い空と眩しい日差しと人らしく息ができる空気があるだろうか。そこで少年は少女の手を握り合い、少女は少年に、これまでの長い間、できなかった愛の告白を気楽にできるだろうか。

詩人の金洙暎(キム・スヨン)は言った。「花をください。さっきとは別の時間のために。」(『花びら2』)彼らは「たったひとつの狭い窓に月光があふれるよう」「さっきとは別の時間 」に、今、会えるのだろうか。

二八青春という言葉があった。16、17が人生の黄金期ということだ。5月の端午の節句に湧き上がる春の心でヒャンダンへより高くより遠くぶらんこを押してとお願いするチュンヒャンもその年であり、その美しい姿に陶酔して恋に陥るしかなかったイ・モンリョンもその年だった。「二八青春!」どれだけ胸がときめく言葉なのか。このときめきの性情が、人間が宇宙に生まれて以来の「正常」だったのだ。

しかし、私たちの時代は、二八青春の子供たちを「中二病」にかかった子供たちと呼ぶ。親や教師、さらにその言葉を聞く子供たちさえ、ぎこちなく言う。「私は患者だよ。中二病だよ。」

歴史の以前にも以後にもなかった異常の世代の病気を患いながらも、世代の病気を強要しながらも、みんなそれを「正常」のように言う。みんな「仕方のないこと」と言う。そして大抵は走っていた暗い廊下をもっと頑張って走れと「患者たち」をむち打ちする。むち打ちするこの廊下には、二八青春だけがないのではなく、人らしい人もいない。

私たちの時代は、もう今や中二病が透明人間になった高3の苦労が、世代の病気ではなく時代の病気なのかさえ感知することもできなくなった。「病気」が空気になったので、カビが家をまるごと食べたので、今や臭いさえ嗅げない。廊下の外に出てきた少年・少女たちは病気から解放されることができるか。少年・少女から「N放世代」として、暗い廊下から出て「ヘル朝鮮」の入口に立った彼らは幸せになれるだろうか。むち打ちしていた親たちが廊下から消えたら、ヘル朝鮮では、「痛いから青春だ」という慰めが精一杯だ。
  • 毎日経済 ハム・ドンギュン文学評論家 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2015-11-13 15:58:00




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