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日韓の世界記録遺産333点を今月登載申請


日本と韓国の両国は、今月中に過去の善隣と友好、文化交流の象徴だった朝鮮通信使と関連する記録物111件333点をユネスコ世界記録遺産に登載申請する。朝鮮通信使と関連したユネスコ記録遺産は外交・旅程・文化記録などで、韓国63件124点、日本48件20点を選定した。申請書が提出されて最終実査と審議を経ると、来年7月ごろに登載されるかが決定する。

朝鮮通信使は朝鮮から日本の幕府の将軍に派遣された公式の外交史節だ。1404年(太宗4)、朝鮮と日本の間に交隣の関係が成立すると、朝鮮国王と幕府の将軍は、それぞれ、両国の最高統治権者として外交的な懸案を解決するために使節をそれぞれ派遣した。この時、朝鮮国王が幕府将軍に派遣する使節を通信使、幕府将軍が朝鮮国王に派遣する使節を日本​​国王社とした。

通信は、両国が互いに信義を介して交流するという意味だ。朝鮮が日本に派遣した使節の名称は回礼使、回礼官、通信官、敬差官など、多様だった。日本に派遣された使節団に通信使の名称が初めて使われたのは、1413年(太宗13)朴賁を正使とした使節団だったが、途中で正使が病気になり中止された。

その後、通信使の派遣が実際に行われたのは1429年(世宗11)京都に派遣された正使・朴瑞生の使節団で、初の通信使とすることができる。派遣の目的は、壬辰倭乱前には倭寇禁止要求が主だったが、その後は日本との関係強化と捕虜の本国帰還、日本国政の探索であり、1636年(仁祖14)以降は幕府の将軍の任命祝賀が主な任務だった。

使節団は、300~500人で構成されていたが、旅は漢陽を出発して釜山までを陸路で行ったあと、釜山からは対馬島主の案内を受けて、海路を利用して対馬を経て下関を通過して、日本の各藩の接待を受けて、大阪の淀浦に上陸して、そのあと陸路で江戸(あるいは京都)に行った。

朝鮮前期には、そこに将軍がいたため京都が終点だったが、朝鮮後期には将軍が東京(江戸)にいたため目的地が東京となった。使節団が通過する客司では、漢詩文と学術の筆談唱和という文化上の交流が盛大に行われていた。特に通信使に対する豪華な接待は、日本の財政を圧迫する一つの原因になったりしたという。
  • 毎日経済 キム・ヨンス記者 | (C) mk.co.kr
  • 入力 2016-03-07 04:02:06




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