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キム・ジュンスが魅力・実力を爆発させる「ドリアン・グレイ」


  • キム・ジュンスが魅力・実力を爆発させる「ドリアン・グレイ」
断言するがキム・ジュンスの、キム・ジュンスのための、キム・ジュンスによるミュージカルだ。それ以上の説明は難しい。

世界でもっとも美しい男、肖像画に魂を売り飛ばしてしまった堕落青年「ドリアン・グレイ」。キム・ジュンスは明らかに人生キャラクターに出会い、人生作と出会い、人生演技を繰り広げた。ただしミュージカル『ドリアン・グレイ』は、キム・ジュンスがいなくとも自生力を持った創作ミュージカルとして生き残るかは未知数だ。

「ドリアン、お前が私ならば…ドリアン、私がお前ならばお前の時間を私にくれ。私の心臓をお前にやるからお前の若さを私にくれ、私の魂をお前にやるから:美しく止まってしまった私」

ミュージカルスターのキム・ジュンスの新作として早くから話題を集めた創作ミュージカル『ドリアン・グレイ』が3日、期待の中でベールを脱いだ。

タイトルロールを担ったキム・ジュンスはアイドル出身の力量を最大に発揮して、爆発的なエネルギーを発散した。現代舞踊をはじめとした難易度の高い群舞、魅惑的な高音と神秘的なビジュアルまで。想像していた『ドリアン・グレイ』の姿そのままに登場し、幕が下りる瞬間まで舞台を掌握した。

さらにチェコで撮影した実写映像は、現代的な感覚美で古典的なストーリーと融合し、新鮮な雰囲気を抱かせる。高いレベルの視覚効果、起承転結がはっきりとした中毒性の強いナンバー、原作を知らない観客のために圧縮されたストーリーテリングなど、あちこちで多彩な試みが垣間見ることができる。

  • キム・ジュンスが魅力・実力を爆発させる「ドリアン・グレイ」

「堕落した純潔なこの知ることのできない生よ、卑しく高貴な宿命、矛盾の生。奇異で恍惚とした苦痛、人間の虚しい生よ、高潔な、卑しい、ただ一度の生よ。後悔なく、燦爛たる美しさ:燦爛たる美しさ」

作品は19世紀の耽美主義を代表するアイルランド作家、オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』を再解釈して舞台上に乗せた。オスカー・ワイルドは小説中の人物であるバジル・ホールウォード自身が考える「自分」であり、ヘンリー・ウォットンは世の人々が考える「自分」であり、ドリアン・グレイは自身がなりたい「自分」だと説明する。自身の分身を小説の中に分離して登場させ、二重的な生の姿を反映したものだ。

ミュージカル『ドリアン・グレイ』もまた原作のこのような思想をそのまま持ってきた。表面的に見れば、バジルはドリアンの純粋性を守ろうとする人物であり、ヘンリーは反対にドリアンを快楽主義に引き入れる人物だ。

ドリアンは二人の間で葛藤するが、よくよく考えればこれは単に一個人の心理的葛藤に過ぎないものではない。事実、この個人史の土台には、当時のヨーロッパ社会で巻き起こった社会的葛藤が敷かれている。バジルは息が詰まるほどに重苦しいビクトリア朝の道徳的な保守主義を代弁し、ヘンリーはこのビクトリア朝道徳の加飾と偽善に快楽主義と耽美主義で立ち向かう。

ヘンリーは快楽主義を叫ぶが言葉が極端なだけで、実際には徹底して社会的な規範の中で行動する。快楽原理によって規範を破壊するのは、けっきょく彼の誘惑に負けたドリアンだ。ヘンリーは自分に代わってドリアンを危険に追いやり、彼を通じて禁じられた欲望を代理充足するだけだ。

「これはなんと悲しいことか!私はしだいに年老い嫌らしく、醜悪になるだろう。しかしあの肖像画は永遠に若いまま残るのだ:ドリアン・グレイの台詞から」

キム・ジュンスはこのようなドリアンの劇的な変化を、繊細ながらも凄絶に表現する。純粋な青年だったが初恋の相手シビルを失いしだいに堕落していく、魂の破壊過程を緊張感をもってリードしていく。台詞から感じられる不充分ささえも、変化無双の歌と強力なパフォーマンスを通じて完璧にカバーする。抽象的で模糊とした、言葉では表現できない魅惑的な美しさはキム・ジュンスの動きと歌の中ではっきりと形象化される。

しかしドリアンの堕落を描き出すまで、それぞれの場面転換は多少急迫だ。勇壮な各ナンバーの継ぎ目もまた同じだ。ひとつのナンバーの余韻が抜ける前に、次のナンバーが鳴り響く。全般的に急な転換が繰り返され、自然な感情移入が妨げられてしまうという心残りもある。

ドリアンの変化に決定的なきっかけとなるシビルとの別れ、死を描いた場面は悲劇的というよりも蓋然性が落ちる。一番残念に思える場面だ。

「暗闇に行け、年老いる顔、変化する私の肉体。お前はもはや私ではなく虚像であるだけ、私は再び探すだろう過ぎ去ったその瞬間、ライラックの香り溢れる私の美しい人生のその瞬間:「君は誰」から」

ヘンリーの望みどおりに純粋さを失い、変わっていくドリアン。彼の堕落の果ては、悲劇的な結末に向かって駆け抜ける。表面的に見れば作品の結末は勧善懲悪の教訓を投げかけているようだ。しかし、作品はたとえ魂を捨てたとしても、道徳を超越した生、その凄惨な崩壊さえも英雄的な生の完成とみなす。

凄絶な没落の中でも美しさを失わないドリアンは、古典的英雄ではなく、ロマン的英雄として描かれる。作品は神の救いを受けること拒否した、「善」だと考えていた価値が「偽善」に転落した時代で、これを破壊する道を選んだドリアンを通じてロマン主義的な反語を完成する。

キム・ジュンスは今回もその名前だけの役目をしっかりと果たす。160分間、狂うほど美しい男ドリアンの完成そのものだ。キム・ジュンスのいない『ドリアン・グレイ』は想像することさえも難しい。

『ドラキュラ』『エリザベート』『December』『天国の涙』『モーツァルト』や『デスノート』などを通じてミュージカル界のスーパースターとなったキム・ジュンス、プレスコール舞台の前に「『ドリアン・グレイ』は創作ミュージカルだから自由で気軽だ」としながらも、「基本がないために、より重圧感と圧迫感もかんじる」と打ち明けた。

2016年秋、『ドリアン・グレイ』とともに華やかに帰還したキム・ジュンスは、果たして創作ミュージカルのリスクと限界さえも飛び越えることができるのか注目される。10月29日まで、城南アートセンターオペラハウスで公演。
  • スタートゥデイ ハン・ヒョンジョン記者 / 写真=C-JeSエンターテイメント
  • 入力 2016-09-07 11:04:15




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