A. | YouTubeの映像に書かれたコメントを見ると、舞台に乱入した女性をサセンペンの元祖と称しています。 韓国でファンたちの行動が世間のうわさになったのは60年代まで遡ります。 当時アメリカのエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)に続くほど大人気だった歌手がイギリスのクリフ・リチャード(Cliff Richard)でした。彼は1969年に韓国を訪れ梨花(イファ)女子大学の講堂でコンサートを行いました。甘い歌声で歌う『The Young Ones』の歌詞が聞こえてくると、一部の女子学生は涙を流して、当時としてはあまりにも衝撃的で下着を脱いで投げる女子学生も、まれにいました。 「この世の終わりだ」 ニュースを聞いた大人たちが舌打ちしていました。 多分、その後に起こるサセンペンの行為を知っていれば「そのくらいは別にどうってことないよ」と言ったかもしれません。 一般的にサセンペンの歴史はMBCの開局と共に始まったと思われています。朝鮮中期、党争に巻きこまれた両班家の哀歓を扱ったドラマ『回心曲』が人気を集めたため、ファンたちは撮影現場で宿泊をしながらドラマ撮影を手伝いました。制作スタッフとしては無報酬で仕事をしてくれるので、断る理由がありません。 1970年代に入りながら、俳優の活動舞台が映画やステージからテレビに移り変わりながら適応できない演技者が一般人と結婚することが多くなりました。この過程で妙なうわさがどんどん広まっていったのです。 結婚した人を見てみたら、普段からよく行き来していた人だったのです。そうでしょう、何度も会っているうちに情が深まることもあります。これを聞いて、一旦突き進んでみようという強引な論理が生まれました。 H.O.Tの公演の時、サセンペンが連れ出されましたが、1990年代まで控えめなファンの立場からすれば、サセンペンは一種の官職でした。この時代は芸能界のニュースは隔週か、毎月発行される雑誌や、スポーツ新聞でしか見ることができませんでした。アイドル市場はちょうど動き始めた時期だったので記者たちの関心も高くなかったのです。そのため、サセンペンたちは雑誌会社の要請を受けて取材中とし、堂々と名刺まで持ち歩き公開的に活動をしていました。 芸能人や芸能人が所属している所属事務所もサセンペンはゴシップの種を作るありがたい存在でした。資金事情が許される大型所属事務所やトップスターは電話私書箱(音声メッセージボックス)を通じてファンと疎通しましたが、多くの俳優や歌手には、そのような幸運が訪れないため、「私が直接見たのですが…」と言いながら雑誌会社にニュースを提供するサセンペンが嫌いではなかったようです。 ティーンエージャーの偶像になったソ・テジもサセンペンのせいで恐ろしい目に遭いましたが、特に何もしませんでした。ソ・テジが住んでいたソウル延禧洞(ヨ二ドン)の家の垣根を乗り越えてラーメンを作って食べたそうですから、ソ・テジはかなり驚いたでしょう。
そうするうちに歌手のキム・チャンワン(金昌完)が自分を11年間もストーキングした人を公開して、処罰を望んだことがありました。最初は名前が多少知られたスターは、当然サセンペンの一人や二人くらいはいるものだと、贅沢なことを言っていると一蹴する雰囲気でした。しかし、似たようなことを経験して引退まで考慮したという芸能人の哀歓が紹介されて社会的な問題として飛び火しました。その結果ストーカーを処罰する別名「キム・チャンワン法」が作られました。 家にまでが訪ねてきて「会ってくれなければ死んでやる」と言ったり、窓に石を投げるので、耐え難かったのでしょう。20歳年上の芸能人を追い回して騒動を起こした20代の女性(当時)は結局拘束起訴されました。 芸能人の象徴として見なされる、ほぼ真っ黒に遮光用のウィンドウフィルムが貼られた大型のバンも、サセンペンから保護するために、この頃から本格的に普及し始めました。 |