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  • Q.
    ユン・ヨジョンがアカデミー授賞式で言及したキム・ギヨン監督について教えてください
  • A.
    映画監督をしていた時の姿ですが、芸術家らしい雰囲気が漂います。

    しかし、映画監督のキム・ギヨン(金綺泳)は、初めから芸術家の道を歩んだわけではありません。

    苦労して医学部を卒業した医者出身です。平壌(ピョンヤン)で高校を卒業した彼は、日本へ渡り苦学して京都大学医学部に通い、ソウル大学へ籍を移し1950年に卒業しました。かなり長いあいだ医学部に通ったわけです。

    大学に通いながら演劇部*で演出を担当しました。大学のサークル同然の演劇部でしたが、平壌でヘンリック・イプセンの「幽霊」を公演する時、既成劇団の水準を越える佳作という絶賛を受けました。平壌で映画、演劇などの検閲を担当するソ連軍政担当者がモスクワ留学を提案したほどです。

    妻のキム・ユボンさんは、ソウル大学歯学部を卒業した歯科医でしたが演劇部の活動を共にし縁を結びました。

    「足のない言葉が千里を行く(意味:噂はあっという間に広まる)」と言われるように、こんな話が米軍政の関係者の耳にも聞こえてきたのでしょう。在韓米国公報員にスカウトされ、『私はトラックだ』、『水兵の日記』などの広報映画を作り始めました。そして1995年、アメリカ公報院の支援を受けて初の商業映画である『死の箱』を発表しました。この作品は映画監督としてのデビュー作です。

    医者になるために医大に通ったことはありますが、キム・ギヨンは幼い頃から文章と絵に優れた才能を持っていたと言います。時々描いた絵が公募展で1位に選ばれ、中学校時代に書いた詩が日本の新聞に載ったりもしました。多方面で才能があるので学校の先生に「キム君は才能が多すぎる。それを全部できる職業は小学校の先生しかいないな」という言葉まで言われたそうです。

    その先生はおそらく絵、文学を網羅する総合芸術映画は考えていなかったでしょう。

    米公報院で一人で文化映画を作りながら一人で習作したので照明や音響などをすべて体当たりで身につけました。シナリオは当然直接書きました。

    キム・ギヨンが作った作品は計32作です。その中でキム・ギヨンが一番大事にしている作品は『下女』です。

    魅力的な音楽の先生を囲む3人の女性の複雑な愛情関係、露骨なセクシュアリティで観客を魅了した作品です。半世紀以上の昔ながらの映画ですが、今見ても驚くほどの演出とミジャンセンが感じられます。彼が小物の一つ一つにどれだけ力を入れているのかも如実に表れます。1960年に登場した『下女』は1971年に『火女』としてリメイクされ、11年後の1982年に『火女'82』で再びリメイク作品として登場します。 1972年に登場した『虫女(チュンニョ)』も、広く見ると下女の延長線上にあります。

    キム・ギヨンが『下女』を通じて表したかったのは何でしょうか。

    欲望です。

    「人間の本能を解剖すれば黒い血が出る。それが欲望だ」

    彼が映画を作りながら、生涯追求してきたテーマでもあります。

    生きようとする最も原初的な欲望から権力と財物を貪り名誉を追求し肉体の快楽に陥る人生。欲望があってこそ権力と富を勝ち取り何かを成し遂げることもできるでしょう。その反面、キリスト教徒たちが言う「原罪」になって内面を蝕むでしょう。

    欲望を表現してみると彼の作品にはネズミ、階段、タバコ、毒薬などがよく登場します。『下女』では階段から降りてくる男をつかまえた女の頭が階段ごとにぶつかる妙な場面も登場します。それに飴玉の上での情事、死体とのセックスシーンなどエロチシズムも奇怪です。

    『離於島(イオド、1977)』に出てくる死体とのセックスシーンは当然、(?)韓国でカットされましたが、日本のNHKで放送された時は、このシーンを生かしました。NHKの放送を録画したバージョンは韓国でかなり高い値段で売られたそうです。

    キム・ギヨン監督は、キム・ジミ、ハン・ソンギ、イ・ウンシム、ユン・ヨジョンなど数多くの新人を発掘してスターに育てましたが、女優の中では典型的な美人よりはやや退廃的な雰囲気の女優を好んだそうです。特にユン・ヨジョンについては「自分の言葉が理解できた唯一の女優」と評し、ハスキーな声にも魅力を感じたそうです。ユン・ヨジョンがチョ・ヨンナムと結婚した後、米国に渡った後「私の作品に出演してほしいというのではなく、ミスユンが住んでいた住宅の価格が下がったから韓国に一度来てみてください」という手紙も送ったそうです。

    彼は本当に奇人でした。

    ユン・ヨジョンの言葉のようにキム・ギヨンは当代の奇人の第一人者です。

    作品にも奇怪な場面がよく登場しますが、行動もそうでした。スタッフをはぐらかした後、一人で肉を焼いて食べたりもしました。『下女』シリーズのネズミを彼が自ら育てたという話も聞こえます。家の値段が安いという理由だけで廃家を購入して暮らしました。

    そしてその家で『下女』をリメイクした『悪女』という作品を企画していたところ、火事で亡くなってしまいました。

    死も人生と同じくらい奇怪なものでした。

    京郷(キョンヒャン)新聞(2013.07.28)は、彼の死をこのように伝えました。

    灰燼に帰した家で見つかった遺作『生存者』の原稿

    映画のような奇妙な死とまた別の遺作


    誰が見ても奇妙な死だった。キム・ギヨン監督夫婦は1998年2月5日未明、明倫洞(ミョンリュンドン)の自宅火災事件でこの世を去った。当時まで未公開作品だった彼の映画『死んでもいい経験』の最後の場面は主人公夫婦が火事で死ぬというものだった。「グロテスク」、「変わり者」。1960年代、新聞に載せられた映画の印象と評価からキム・ギヨン監督について回った言葉だった。彼が以前住んでいた朱子洞(チュジャドン)の洋館は、お化け屋敷だったため安く購入したという噂があった。息子のドンウォンさんは「最初に住んでいた家に住んでいた若者が鉄条網に首が引っ掛けて死んだと聞いた」と伝えた。先に引用した『伝説の烙印』によると、大学路の家はすでに2回も老夫婦が死んだのだが、大黒柱が倒れたりという不明な理由で同じ日に同時に死んだという噂もあった。

    「午前2時にかけつけた。灰の山が私の背丈より高く積もった」。息子のドンウォンさんは家が火災で全焼した後「奇異な経験をした」と話した。焼け野原になってすべて燃えたのに、ビニールに包まれた文書が見つかった。「ドンウォンよ、見ろ」で始まる父の遺書だった。「非常に驚いた。遺書の第一声は「この韓屋を買うのはやめようと言ったのに母が言い張って買った」という叱責から始まる。ところが、その次がこれだ。「僕が空中に浮かんで僕の家の庭を見下ろすんだが、たぶん僕は死んだのだろう。 お前(ドンウォンさん)が庭先に三脚を立てて地面を掘っているのが見える」、キム・ギヨン監督が描写している姿は庭で作業している自分の姿とあまりにもそっくりだったのだ。