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もっと! コリア (Motto! KOREA)
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  • Q.
    イ・ワング前総理が関与していたという「三清教育隊」とはどんなところでしたか?
  • A.
    MBCのドラマ『光と影』で主人公が陰謀による犠牲者となって「三清教育隊(サムチョンキョユクデ)」に連行されてひどい暴行を受けている。(MBC映像キャプチャ)

    血走った怒りも義理も人情も
    軍靴の足 台尻に滅茶苦茶になる
    自分の体ひとつ支えることができず、笑顔一つ見せず
    手を結んで地を這って折れた指
    マイナス20度の地で凍傷にかかり膿が流れる足の裏
    殴られてまともなところが一つもない節々
    トイレにしゃがんで座り、赤い血便をし
    初めて声を殺して泣き
    笛の集合の音にぱっと立ち上がる

    1984年に出版された詩人パク・ノヘ(朴労解)の『労働の夜明け』に掲載された詩、三清教育隊の一部だ。現場の労働者として働いていた詩人が27歳で出したが詩集は、軍事政権の禁書措置にもかかわらず、100万冊近くが売れ、若い大学生の良心に太鼓の音のように響いた。

    パク・ノヘはこの詩で生き地獄に連れてこられた人々を紹介する。未払い賃金を要求して座り込みをしていたところを連れてこられたキム氏、土方の仕事に行った母を迎えに行き悪党の濡れ衣を着せられて捕らえられてきた15歳のソンさん、踊っていたパートナーがよりによって高官の夫人だったため捕えられてきた人、残業が終わって夜遅く帰宅していたところ、二の腕に刻んだ入れ墨のせいでつかまり若い婚約者を置いてきた「かならず生きて出なくてはいけない」と涙声で話したシム兄。

    果たしてパク・ノヘの詩は真相をそのまま伝えているのだろうか。本当に韓国はこのような残酷な歴史を持っているのだろうか。

    三清教育隊は、5.18光州民主化運動を武力鎮圧した軍部が内閣を制御するために設置した国家保衛非常対策委員会、略して国保委により作られた機関だ。社会の中から悪質な暴力団や犯罪者を根絶するという趣旨を掲げたが、検挙された人のうち、3分の1以上が無実な一般市民だった。14歳の中学生や女性も含まれていた。

    三清教育隊は、密かに行われた三清作戦からとってつけられた名称だ。国保委が企画し、一線の警察が実行を引き受けた検挙の対象は、事前にリストに記述されていた前科者と暴力団員の2万22人だった。しかし力が強く、お金があり、バックがいる人たちはあらかじめ情報を聞いていた。悪人が抜けた場所を貧しいホームレスや長屋で寝ながら一日一日を延命していたさすらいの人々が埋めた。

    特に警察署間で競争がおこり、割り当てが決められながら、令状なく囚われた市民の数が6万人を超えた。全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の悪口を言って摘発された人は、例外なく三清教育隊に連行された。

    その中には、予備役陸軍少将のカン・チャンソン(姜昌成)もいた。カン将軍は朴正熙(パク・チョンヒ)政権でチョン・ドゥファン、ノ・テウ(盧泰愚)前大統領が所属していたハナフェを根絶しようとしたところ、強制的に除隊させられ、海運港湾庁長を務めていた人物だ。酒の席で「欲を捨て政権を民間に移譲しなければならない」と全斗煥の執権への野望を非難したことが裏目に出て、三清教育隊に連行され、自分の子供ほどの年齢の兵士に激しい訓練を受ける。

    人気コメディアンでMBCのテレビ劇場を牛耳っていたイ・ギドン(李起東)は、三清教育隊に行ってきた後、夜の店への出演を終えて夜明け前に家に帰る途中、倒れて亡くなった。彼と一緒に事業をしていた同僚俳優のペ・サムリョン(裵三龍)は、「経営が上手くできず不渡りを出した経済事犯という理由で連れて行かれたが、実際は金鍾泌(キム・ジョンピル)の支持者だったからだ」とし「三清教育隊に行ってきた後、屈辱と鬱憤を我慢することができず、毎晩酒を飲み合併症で死んだ」と証言した。

    さらに、学校ごとに問題児を数人ずつ選んで純化教育として送ったりもしたが、ミュージカル俳優のナム・ギョンジュが、このようなケースで三清教育隊に行ってきた人だ。三清教育隊は思い浮かべることも嫌な悪夢だ。

    国保委の内務分科委員長を務めたクォン・ジョンダル(権正達)前議員は、自身の回顧録で「後に三清教育隊に行って来た人々から『地獄に行けと言われれば行っただろう、あそこには行けない』という言葉を聞いた」と打ち明けた。悪徳高利貸しだと言われ三清教育隊で15日間の教育を受けた女性は、また行くのが怖いからと借金を帳消しにした事例もその悪名を推測させる。

    1980年8月から翌年1月まで、兵士と警察の検問、調査、逮捕の過程で検挙された人は、弁護を受ける権利を根こそぎ奪われたまま、形式的な審査を経てA、B、C、Dの4ランクに分類された。等級分類基準があるにはあったが、書類上の方式であるだけで、実際には通りで不意に検問した時に身分証明書を持参していなかったという理由だけでB級に分類された市民が多くいた。

    A級はすぐに軍事裁判にかけられ、D級は訓戒措置された。問題はB級とC級に該当する者だった。警察から軍に引き渡された人員が3万9786人だったが、軍に引き継がれる頃には3万9742人と、すでに44人が消えていた。

    三清教育隊の純化教育プログラムは、本来4週間であり、入所当初は将軍と将校たちが「4週間たったら出してやる」だったり「訓練をちゃんと受ければ早く出してやる」と安心させたが、過酷な訓練が終わった後も訓練生の帰宅は行われなかった。B級の1万16人は、兵士がものすごい剣幕で見守る中、労働奉仕に自願するとサインをして、強制労働に動員された。

    三清教育隊から出てきた人を労働に動員したのは、パク・チョンヒ政権が軍に行かなかったり、または不良たちを徴集して済州島に5.16​​道路などを建設した国土建設団を模倣したものだった。労働に動員された人々にも容赦のない訓練と不謹慎な教官による過酷な行為が続いた。

    何の意図だったのか軍は三清教育隊に行ってきた人に修了証書を与えた。このため、彼らは三清教育履修者と烙印がついて就職をしたり、結婚をするのにも困難が伴った。農業を営んでいた途中で三清教育隊に連行されて過酷な訓練を受け、江原道で軍事道路を造ることに動員されていたキムさんは、「結婚したが三清教育隊に行ってきた事実が知られて離婚を迫られた」と証言した。

    三清教育隊では、多くの人が暴力に耐えられず死亡した。現場で死亡した人が54人、後遺症により命を失った人が397人、精神障害などの傷害を被った人が2678人だ。これは、国防部が公式に集計した数字であるだけで、実際にどれほど多くの人が死んだのかは、文字通り、知っている者だけが知っていることだ。

    自分の部隊だけで3人が自殺をしただとか、自分が働いていた隊で11人が死亡したという教官らの証言から推定すれば、現場の死者だけで数百人から千人に達するという主張もある。

    その後、国防部の過去事真相委員会で三清教育隊を内乱罪として判決し、ノ・テウ大統領時代に名誉回復と補償を約束したが、守られなかった。もし、イ・ワング元首相が三清教育隊に直接関与し、その功労で勲章を受けていたなら、非難されるに値する。彼は「自分は些細なお使いをしただけで、三清教育隊とは関係がない」という主張を曲げない。

    ☞ 過去の歴史に無知な若い学生が三清教育隊を、三清教育大学と間違ったり、これを冗談のタネとする場合がしばしばある。イム・チャンジョンが教育大学であると思って自ら三清教育隊に自主的に入所したという内容の映画『出会いの広場』という映画もある。