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もっと! コリア (Motto! KOREA)
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  • Q.
    今を輝く韓流スターが誕生した1988年、韓国では何が起きていましたか?
  • A.
    1988年、韓国で本当にたくさんのことが起こりましたが、この年に生れた芸能人もたくさんいます。

    誕生日順に並べると、1月には俳優キム・シフとイム・ジュウン、2PMのボーカルJun.K(キム・ミンジュン)、2月にはキム・スヒョン、SUPER JUNIORのギュヒョン、東方神起のチャンミン、RAINBOWのラッパーコ・ウリ、歌手兼俳優のイ・ジュンなどが生れました。正直に話すと、何人かは抜かしました。少し人気のない芸能人は抜かしてあります。

    このような基準を適用してみると3月は飛ばして、4月にはAFTER SCHOOLのユイと歌手のユンナ、5月には9musesの元メンバーイユエリン、BIGBANGのSOL、KARAの元リーダーパク・ギュリ、俳優イ・スヒョクが誕生しました。2PMメンバーの中ではタイ出身のニックンがこの年の6月に生れましたが、他の芸能人は置いておいて、夏の7月にはKARAのハン・スンヨン、ZE:Aのグァンヒが生れました。8月にはBIGBANGのG-Dragonが生れています。

    涼しい風が吹き始める9月には歌手のNSユンジ、RAINBOWのオ・スンア、9musesの元メンバーウンジ、そして10月にはWonder Girlsのラッパーユビンと俳優キル・ウンヘが生れました。11月生まれは省略して、年の暮れの12月には2PMオク・テギョン、T-ARAのメンバーウンジョン、ZE:Aのイム・シワン、俳優パク・ソジュンがお母さんの胸に抱かれました。

    1988年に生れた芸能人を挙げてみましたが、少ないようにも感じます。除外したリストもそこまで多くないのですが、リストを確認しながら感じた事実をひとつ付け加えると、この年に生れた日本の芸能人も多いと言うことです。筆者が好きな俳優の藤井美菜もこの年に生れました。

    ソウルオリンピック(9月)が開かれた年に生れた1988年生まれの芸能人は世界に広がる韓流の気運をたくさん受けて育った世代です。リオ五輪を見ていると、改めて当時のことが思い出されます。ドラマ『応答せよ 1988』にもオリンピックが最も重要な話題として登場します。主人公のソン・ドクスンがマダガスカルのプラカードを持つ役割に選ばれたのですが、不参加したせいで、テレビの前で集まっていた家族たちは失望しました。

    tvNの番組紹介でも、ソウルオリンピックは1988年の最もホットなニュースとして登場します。オリンピックのエピソードがあまり多くは有りませんが、韓国人の生活にものすごい影響を与えました。紹介文を呼んでみましょう。

    「大韓民国で最も多いと言う1971年生、45歳のソン・ドクソン。ドクソンが18歳だった1988年、建国以来最大の行事であるソウルオリンピックが開かれて、学力考試が行われた1989年にベルリンの壁が崩れた。大学に入学した1990年、MBCのラジオ『ペ・チョルスの音楽キャンプ』がスタートした」

    ソウルオリンピックは韓国人にって、スポーツイベント以上の意味を持っている事件です。

    • < ソウルオリンピック当時、ソウル市庁前の広場に設置された花の塔。てっぺんには、マスコットのホドリが立っている >

    韓国にオリンピックを誘致しようとする動きは1979年から始まりました。その年の4月、蚕室で世界女性バスケットボール選手権大会が開かれたのですが、パク・チョンヒ(朴正熙)大統領は決勝戦を観覧した後、関係者との夕食の席でオリンピック開催を命じました。

    1970年代の末に推進していた忠清南道新行政首都の建設計画に1996年のオリンピック競技場の土地が描かれました。その時までは、韓国がオリンピックを開催する力量を確保するためには、年月が相当にかかるだろうと判断していたのです。

    パク・チョンヒ大統領が亡くなった後、政権を引き継いだチョン・ドゥファン(全斗煥)は政権の正統性を確保するために、オリンピック誘致戦に飛び込みました。パク・チョンヒと親しかった日本の企業家瀬島龍三も体制の安定のためにオリンピックやEXPOなどのようなイベントを誘致しろと助言しました。

    ソウルはオリンピック誘致戦であまり勝算がありませんでした。投票を実施しても、ソウルは韓国、米国、台湾の、たった3票だけを得るにとどまるだろうという悲観的な展望が多く、オリンピックを諦めようという反論も多い状態でした。現代グループのチョン・ジュヨン(鄭周永)会長の努力の結実が結ばれて、開催都市として選定された後にも、雑音は後を絶ちませんでした。

    軍事政府は民主化に対する韓国民の熱望をオリンピックを言い訳に防ごうとしました。政局が混乱に陥ると、オリンピックを開催することが難しくなるというのが当時の政権の論理でした。

    しかし、「大統領を国民の手で直接選ぼう」という直接選挙制を骨子にした民主化に対する熱望は6月の抗争を起こし、「民主化なしにはオリンピックを開催できない」と判断したノ・テウ(盧泰遇)前大統領の6.29宣言へと続きました。教皇庁は、韓国政府が市民の抗争を流血鎮圧する場合には、ソウルオリンピックの前面ボイコットを訴える予定だったと言われているので、政権としてはどうしようもない選択だったのでしょう。

    政権を維持するために誘致したオリンピックが、政権の命脈を切ったという、アイロニーが起きたのです。

    1980年、モスクワオリンピック。1984年のLAオリンピックが冷戦により東西の両陣営がお互いに不参加して、半分だけの大会として開かれたせいで、160カ国8465人が参加したソウルオリンピックは参加国だけでも成功した大会として評価されるのに十分でした。

    しかし、在任期間にオリンピックの誘致に心血を注いできた前任のチョン・ドゥファン大統領は競技場に入ることもできず、家でテレビを見なくてはいけない境遇でした。「観衆がチョン・ドゥファンは見てヤジを飛ばしたら、国家的な恥だ」と判断したノ・テウ大統領がチョン・ドゥファンのオリンピック開幕式参加を阻止したからです。『Hand in Hand』東西の和合を掲げたオリンピックが生涯の友人であったチョン・ドゥファンとノ・テウを引き裂いたようなものでした。

    その後、与小野大の国会で、韓国の憲政史上、初めて5.18光州民主化運動に対する聴聞会が開かれました。結局、チョン・ドゥファン前大統領夫婦は対国民謝罪を発表した直後、江原道雪岳山(ソラクサン)にある百沢寺へと自らを流刑(?)するために旅立ちます。そのときが11月、江原道の山奥は、初雪が降る直前の寒い時でした。