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  • Q.
    ドラマの歴史人物、「思悼世子」について教えて下さい。
  • A.
    思悼(サド)世子が出てきたドラマ、映画

    『安国洞の奥様』MBC(1980_ - ユ・インチョン
    『朝鮮王朝500年」MBC(1983-1990)* - チェ・スジョン
    『天よ、天よ』KBS(1988) - チョン・ボソク
    『大王の道』MBC(1988) - イム・ホ
    『正祖暗殺ミステリー8日間』CGV(2007) - チョ・ハンソン
    『イ・サン』MBC(2007) - イ・チャンフン(回想シーンのみ登場)
    『ペク・ドンス』(SBS2011) - オ・マンソク
    『秘密の扉』(SBS2014) - イ・ジェフン
    『赤い月』KBS2(2015) - キム・デミョン
    『思悼』映画(2015) - ユ・アイン

    *『朝鮮王朝500年』の11部作の中で思悼世子が出てくる閑中錄編の放映時期は、1998年10月~1989年6月KBSの『天よ、天よ』と重なる。閑中錄で思悼世子を演じたチェ・スジョンと『天よ、天よ』で思悼世子の妻の惠慶宮洪氏を演じたハ・ヒラが結婚した。

    • < 思悼世子の想像ご真影 / 右はオ・スンオ画伯の絵 >

    朝鮮21代王英祖は、42歳のときに王子の李愃(イ・ソン)をもうけました。最近で考えても高齢出産ですね。さらに、7年前に長男を失ったあと後継ぎがいなかったため、英祖の喜びは相当なものでした。

    王子の母、暎嬪李氏は出身が微賤でした。6歳で宮廷に入り、肅宗時代に大殿で働いて粛宗の繼妃、仁元王后の目に入り後宮になったといいます。

    このような事情のためか、王子は生まれてすぐに貞聖王后徐氏の養子に入籍し、元子の爵位を与えられました。翌年には、一歳の誕生日が過ぎたばかりの状態で思悼世子に冊封されました。しかし、100日になる前に王子は母と生き別れをしなければなりませんでした。

    英祖は王子を景宗の継妃である宣懿王后が住んでいた儲承殿に留まるようにし、景宗と線王妃を仕えた宮人が面倒を見るようにし、近くにあった就善堂*を世子の食べ物を作る燒廚房としました。このような措置は、景宗毒殺説**から抜け出して世子の権威を立たせるためだったのでしょうが、世子には不幸の始まりでした。

    *就善堂 ‐ 粛宗時代に賜藥を受けた禧嬪張氏が中宮殿で嬪に降格したあとに仁顯王后閔氏を呪ったところ。

    **景宗毒殺説 - 粛宗の後を継いで王になった景宗が王世弟延㭁君(後日英祖)に毒殺されたという陰謀論。

    世子を仕える宮人たちは世子の母である暎嬪を見くびり、近づくことさえさせませんでした。世子を産んだ母とはいえ身分上は君臣関係のため頻繁に会うことが許されず、会う時でさえ臣下としての礼儀を守らなければならないというのが儲承殿を率いる宮人たちの企みでした。

    暎嬪は息子に会いたくてもせいぜい一日に1回、月日が過ぎると一日おきに1回・数日おきに1回の割合に減り、後には1か月に1~2回しか息子に会えませんでした。

    母と離れて暮らしても世子は賢明に育ちました。生まれた時からそうでした。生後4か月でハイハイをし、6か月で父の呼びかけに答え、7か月には東西南北を区別し、2歳の時には60文字以上を書き出すほどの漢字を覚えました。3歳のころには千字文を習っていたときに絹の服が贅沢だと言いながら着ることを拒否し、大臣たちの称賛の声が絶ちませんでした。

    しかし、世子に対する英祖の絶対的な愛はその時まででした。息子に対する老いた王の態度は厳しくなりました。自分が死ぬ前に王の役割を適切に行える器になるようにする考えだったのでしょうが、世子に接する英祖の態度は虐待に近かったのです。ひょっとしたら自分とは反対に世子が「文」より「武」をより好んだためだったかも知れません。

    とにかく、世子は父王に会うこと自体を怖がりました。貞聖王后の介護で吐血をした器を握りしめながら号泣をしているときに王が入ってくると泣き止み部屋の隅でうずくまりながらぶるぶる震えるほどでした。

    世子にはさらにひどい苦痛が待っていました。ときどき英祖が行う禅位波動です。英祖は政局を安定させるため、伝家の宝刀のように禅位を取り出しました。世子が2歳のときに行った禅位波動は乳幼児には特に害を及ぼさなかったのですが、15歳のときに行われた禅位波動は世子に傷を与えました。

    禅位ができないなら代理聴政でもしろと頑として押し通したために10代で政務を引き受けることになります。世子は代理聴政をしながらいつも不安に震えました。父王に些細なことを聞くと「そんなことも一人で決められないのか?」と怒られ、聞かなければ「自分勝手だな」と怒られました。

    いつもストレスに苦しんだ世子は、18歳になった年にはしかにかかります。当時は死に至るほどの病気でした。しかし世子は代理聴政で間違ったという理由で3日間も雪に当たりながら席藁待罪(ソッコテジェ:藁の上に伏して処罰を待つこと)をしなければなりませんでした。

    当時宮殿に広がったはしかにより、同腹の姉である和協翁主が20歳という若い年齢で早死します。兄妹はいつも父王に嫌われていたため、2人でいるときに「私たち兄妹は父さんの耳を洗う水***」と言いながら苦笑いをしたといいます。そんな姉が死んだのにも関わらず半月も過ぎずに英祖がまた禅位波動を行い、世子は疲れた体で10日間も雪原に頭をつきながら席藁待罪をしました。

    ***英祖は気に入らない話を聞いたら耳を洗ったのだが、耳を洗った水を思悼世子や和協翁主の所に捨てることが多かった。

    朝鮮の歴史上、思悼世子ほど多くの席藁待罪をした人物もおそらくいないでしょう。

    世子は、自分を可愛がってくれた祖母の仁元王后と嫡母の貞聖王后徐氏が亡くなったあと、精神的に疲弊してしまいます。

    宮女を殴って強姦することが多く、連続殺人まで犯しました。多い日は内人と内侍を1日に6人まで殺したこともあったと伝えられています。世子から特別可愛がられていた後宮の朴氏も、ひどい衣帯症****を患う世子に殴られて死にました。世子によって命を失った人が100人に達するほどだったので、確実に狂っていたのでしょう。

    ****服を1度着たびに数十着をかけておいたり、燃やしたりもした。かろうじて一着を選ぶと、擦り切れるまで着る。

    刑曹判書尹汲のチョンジギ(両班の家で雑事をする人)である羅景彦は世子の狂暴な行動と北漢山城に遊びに行ったこと・商人たちにお金を借りて返さないことなど10項目を記した文章を懐に入れ、英祖に会って伝えました。英祖は国庫を開けて市廛商人に借りたお金を返済したのですが、そのとてつもない額に激怒しました。

    羅景彦は世子の非行を逆謀と誇張したという理由で斬首の刑に処せられます。しかし英祖の腹わたは煮えくり返っており、突然世子を呼んで命令を下します。世子が自害しようとするのを臣下が止め、英祖は世子の地位から降りる辞令を下したあと、米びつに閉じ込もれと命令しました。一国の王世子が米びつの中に閉じ込められたまま、8日間で死ぬという惨劇が起きたのです。

    思悼世子はこれに閉じ込められたあと、8日後に息を引き取ります。 / 写真は明知学校博物館に所蔵されている米びつ(横101センチ・縦66.5センチ・高さ975センチ) / このような事情から、思悼世子は「米びつ大王」の名前で民間から神として祭られる。