Q.昔の韓国にあった興味深い職業には、どのようなものがありますか?(中)

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A. 韓国が近代化を経て、経済成長を経る間、多くの職業が生まれました。西洋文明の象徴である電話が設置されて電話交換手という職業が生まれ、小説の読者が増えて文章を読んであげることを生計手段とする語り手も登場しました。観客を泣かして笑わせる才談家(漫才師)である弁士が映画館のスターに浮上したとすれば、バスの女車掌は高度成長期を支えた若い女性たちの哀歓を見せます。

朝鮮末期に新たに登場して姿を消した職業の中から、電話交換手など4つの職業を紹介します。

▶ 電話交換手

韓国に電話交換手が登場したのは、当然、電話が登場した後のことです。韓国に初めて電話が架設された時期は1898年ですが、商業電話は漢城~仁川間に開通したのが初めてでした。そして同年6月から漢城電話所で市内電話の交換業務が開始されました。

1898年に架設された電話は、慶運宮に設置された電話でした。臣下は王に電話をかけることが礼儀に反するときまりが悪そうにしましたが、その年に開かれた万民共同会の期間中、多くのデモ隊が集まって17人の独立協会会員の釈放を要求すると、時局の緊急さを知らせるために高宗に電話をかけました。

電話は近代朝鮮において他の文物に比べて早めに導入された西洋文物でした。当時、電話機は磁石式単式交換機と壁掛形交換機だったため、これを接続する交換手が必要でした。電話が磁気式から共電式に、そして自動式に変わりながら必要性が半減し、後日、まったく不要になりました。今でも電話番号を教えてくれる114番(日本の104番のようなもの)があるものの、昔の交換手とは異なります。

初期には、男性の交換手もいましたが、女性に適した職種とされ、主に女性が従事していました。女性交換手たちは男性のいたずらと悪口に苦しめられることもありました。時おり電話接続が遅くれたりすると「寝ているのか!」という怒鳴りを聞いたりしました。

交換手の残存は、官庁や大企業、ホテル、レジャー団地などで構内交換業務をする人びとに残っています。

▶ 伝奇叟

お金をもらって聴衆の前で小説を読んであげる専門の語り手です。この語り手は韓国にだけあったのでは、もちろんありません。中国武侠小説の大家金庸の小説『鹿鼎記』には、主人公が口伝によって昔話を聞いて知識を得るエピソードが出てきます。

韓国では朝鮮後期に伝奇叟が大挙して登場します。読者が平民や婦女子に拡大され、小説を書いて生計を維持するプロのライターが生まれ、文を読めない人に本を面白く読んでくれる語り手が生まれました。

伝奇叟らがどれほど実感を込めて話を聞かせてくれたのかを示、一例があります。

昔、ある人が鍾路のタバコ店で稗史が読まれているのを聞いていたのですが、英雄が失意する部分に至ると、突然目を見開いて口角泡を飛ばしながら、タバコをきざむナイフで語り手を刺して殺してしまったといいます。

▶ 弁士

無声映画時代に弁士は俳優に劣らない人気芸能人でした。弁士が誰かによって映画興行が左右されるほどでした。米国や欧州にも弁士がいましたが、韓国と日本で弁士の活動が目立っていました。

日本で弁士4~8人が舞台に登場してそれぞれの役のセリフを演じたものとは異なり、韓国では弁士ひとりが劇のストーリーを説明して、登場人物のセリフを引き受けました。当時の映画館には映写機が一台しかなかったため、フィルムを変える幕間には、弁士が幕間劇を公演しました。

無声映画が有声映画に変わり、自然と弁士が立つ舞台はなくなりました。 1937年頃、一流劇場からは弁士が消え、最後まで活動していた弁士は1948年に上映された『検事と女先生』を最後に、歴史の​​舞台から引退しました。

▶ バスの女車掌

1970年代、韓国経済が高速成長のエンジンを稼動するときに、縫製工場の労働者たちは窮屈な工場で週60~70時間、ミシンを回しながら暮らしました。

縫製工場の労働者よりも劣悪な条件で働いている女性が、市内バスの女車掌でした。彼女たちの苦しい生活を代弁する事件が1977年9月4日、ソウル市内の真ん中で起きました。

17歳の女車掌が走るバスから墜落して死亡しました。冷たい遺体の横には10ウォンの硬貨が散在し、田舎から上京して市内バスで働き始めてからわずか四カ月にして起きた事件でした。最初は満員バスの乗客の誰かが押し出したという疑惑が提起されましたが、調査の結果過労で疲れた女車掌が立ったまま居眠りをして、うっかりドアの開閉装置を押したため、ドアが開いて墜落したことが明らかになりました。

バスの女車掌は一日19時間働きました。朝5時に起きて一回運行するたびに2時間~2時間半かかる作業を1日8回も行いました。次の勤務に出るまで20分程度の休憩時間がありますが、運転手が頼む細かい用事をこなさなくてはいけないため、休む暇はありません。食事も休み時間に解決しなければなりません。

終電勤務を終えた時間は夜の11時50分。だからといってすぐに眠ることもできませんでした。硬貨を1枚でも隠しているかも知れないとピンハネ検査を受けて、バスの内部清掃を終えてから、やっと眠りにつくことができました。

彼女たちが眠りにつく寮は8坪余りの空間で、一部屋に20人の少女たちが横たわって眠りました。こんな寮でさえも、釜山のあるバス会社では寮の窓を鉄柵で封じていて、火事が発生したときに5人の女車掌が死亡して、9人が重い火傷を負う事故が起きました。

このようなつらい仕事をして女車掌が受け取るお金は日当3400ウォン、1カ月休みなく働くと6万8千ウォンを受けとりました。ここから寮費と食費として2万5千ウォンを会社が取り、必要な生活必需品などを買うと、2万ウォン程度が残りました。バスの案内嬢はこのお金を田舎の実家に送り、そのお金は弟や妹の学費に使われました。

地下鉄ができてバスの乗客が減り、バス会社はバスのフロントドアにトークンやお金を受け取る箱を設置して、女車掌を解雇しました。大都市では1985~86年の間に案内嬢が消え、田舎のバスでは1~2年程度存在していましたが、その後、歴史の裏に姿を消しました。
  • Lim, Chul
  • 入力 2015-08-21 00:00:00

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