トップ > カルチャー > 韓国探訪 > 教皇が参拝するソルメ聖地・海美邑城へ行ってみれば...

教皇が参拝するソルメ聖地・海美邑城へ行ってみれば...

韓国カトリックの始まりと同時に殉教の地/「丙寅迫害」時に1000人生き埋めにした跡そのまま/8月15~17日、教皇訪問前に観覧客の喧騒 

  • 教皇が参拝するソルメ聖地・海美邑城へ行ってみれば...
「私は幸せです。皆さんも幸せになってください。」(ヨハネ・パウロ2世教皇)

「良い心を持つことを恐れないでください。」(フランシスコ教皇)

去る22日、忠清南道唐津(タンヂン)市の牛江面(ウガンミョン)宋山里(ソンサンニ)にある「ソルメ聖地」。韓国人初の司祭の聖金大建(キム・デゴン)神父(1821~1846)が生まれたここには、教皇の写真とともに語録が書かれたプラカードが大きく掲げられている。あちこちで金槌の音が耳に響く。8月15日、フランシスコ教皇がここを訪れているというニュースを聞いて、来場者が平日100人ずつ増えているという。

周辺には高さ10メートル前後の青松が「韓国のベツレヘム」を優しく包んでいる。教皇はここでアジア青年大会に参加する若者6000人余りと対話を交わす予定だ。8月17日には瑞山(ソサン)の海美邑城(ヘミウプソン)で、アジア青年大会閉幕ミサを執り行う。

去る22~23日の二日間、韓国カトリック主教会議の主催で開かれた「内浦(ネポ)カトリックの聖地を探ねて」に同行取材した。

内浦とは忠清南道のタンヂンとソサン・禮山(イェサン)・洪城(ホンソン)などを指す言葉で、海が陸地の奥深くまで入ってきて、船が出入りするいくつかの浦で構成されているという意味を込めている。

「内浦の使徒」と呼ばれ、初期のカトリックの普及に大きな貢献をした李存昌(イ・ヂョンチャン、1752~1801)が生まれた忠南・禮山のヨサウル聖地、100年の歴史の合徳聖堂、キム・デゴン神父生誕地のソルメ村、第5代朝鮮教区長のダブリュイ司教が「朝鮮殉教史」備忘録を完成した合徳新里聖地、700人余りが殉教した洪城の洪州(ホンヂュ)聖地、庶民数千人が生き埋めにされたソサンの海美邑城聖地を順番に見て回る予定だった。

聖地どうしの距離が4~20キロ前後なので、自転車や徒歩での巡礼が可能だ。一番最初に訪れたのは忠南・禮山ヨサウル聖地。この地域で一番の金持ちだったイ・ヂョンチャンが住んでいた場所で、内浦カトリックの歴史の出発点と言える。

イ・ヂョンチャンは二度も背教した学者だったが、キム・デゴン神父と二番目の韓国人司祭だった崔良業(チェ・ヤンオプ)神父の家と姻戚関係を結び、カトリック普及のための中心軸の役割を果たした。ヨサウル聖地を管轄するユン・インギュ神父は、「朝鮮・肅宗(ソクチョン)の時に失脚した南人系の学者たちが漢陽に近い内浦地方に下りてきて、実学と西学を研究したのが内浦カトリックの歴史の始まり」だと説明する。

ゴシック様式の合徳(ハプトク)聖堂はソルメ聖地から4キロの距離だ。ハプトクは依然として住民の95%がカトリックであり、輩出した神父と修道女は100人を超える。

新里聖地のキム・ドンギョム神父(36)は、「1970年代、牙山防潮堤と挿橋川が続々と生じて、内浦の本来の意味はかなり退色したが、近代まで船が頻繁に出入りしていた所」とし、「初期カトリックが平地に広がったのはイ・ヂョンチャンの存在感と、一度隠れると探し出すことが難しい地形のおかげ」だと説明した。

新里聖地は正祖に「すべての天主学に水が入りました」と報告したという記録が伝わる村だ。

唐津(タンヂン)が信徒と神父を輩出した場所であれば、忠清南道の瑞山市海美邑城は数千人の信徒が罪を問われて処刑されたところだ。海美邑城の兵舎は海岸線守備の名目で独自処刑の権限があり、1801年の「辛酉迫害」から80年あまり、信者数千人を捕まえて生き埋めにした。邑城の近くには信者の「イエス、マリア」という叫び声を「ヨスモリ(麗水頭)」と聞き間違え、住民が「ヨスゴル」という名前を付けることもあった。

海美聖地のペク・ソンス神父は、「迫害時に生き埋めにされた信者約1000人のうち、130人だけ名前が明らかになったが残りは全て無名」とし、「子供の遺骨も多い」と当時の残酷さを伝えた。
  • 毎日経済_イ・ヒャンヒ記者(唐津・瑞山) | (C) mk.co.kr
  • 入力 2014-04-24 17:02:09