Q.イ・ジョンソク、キム・ウビンらが生まれた1989年、韓国ではどんなことが起きていましたか?

답변게시판
A. 1989年はベルリンの壁が崩壊した年です。第二次世界大戦後、東西分断したドイツが統一への道を開いたのです。

ところで、これは知っていますか? ベルリンの壁を崩した主役がメディアの誤報という事実を。

ベルリンの壁の崩壊を最初に報じたメディアは、イタリアの通信会社であるANSAです。1989年11月9日午後7時(現地時間)が少し過ぎた頃、「flash(緊急ニュース)」に「The Berlin Wall has collapsed」というニュースが世界中に配信されました。世界的なスクープだったのですが、世紀の誤報でした。

この日、東ドイツ政府の報道官は、内外信記者会見を開き、「東ドイツ住民にどこの国境検問所においても出国を許容する」と、旅行緩和措置を発表しました。旅行緩和措置だと言っても、出国許容時点が全国境検問所に拡大され、旅券発給期間が短縮されるなど、西ドイツ旅行に少し目覚ませる程度でしたね。東西ドイツの記者たちの反応は、気に食わない様子でした。

ところが、ANSAのリカルド・エルマン特派員が、「ベルリンの壁が崩れた」という記事を書いたのです。ANSA外信部長は、「お前、狂ったのか?」と記事化を拒否しましたが、現場記者を信じてほしいというエルマンの懇願に屈し、ニュースを流しました。西ドイツのテレビは冷静に夕方のニュースを準備中でしたが、ANSAのニュースが出た後、これを掛け継いだAP、AFP、UPI、ロイターなどの西側の主要通信社のニュースが入り始めたのです。

時間に追われた西ドイツテレビは、あらかじめ用意しておいたニュースに、「東ドイツ、国境を開放する」という一言を添加して、ニュースの方向を変えました。午後8時過ぎ、西ドイツテレビを見ていた東ドイツ住民が、興奮し始めました。住民は車に乗り、あるいは歩いて国境線に向かいました。国境を警備していた東ドイツ兵士たちは、彼らを防ぎ立てましたが、数千人が集まってくると、威勢に押された将校が門を開けました。その時刻が夜10時45分でした。一瞬のうちにすべての警備哨所の門が上がり、一滴の血もなく、ベルリンの壁があのように崩れ落ちました。

ベルリンの壁が崩れる8カ月前の2月1日、韓国はハンガリーと国交を結びました。その日、韓国の主要新聞は1面の記事を決めるのに苦労しました。北朝鮮の友好国と思っていた東欧の国と国交を結ぶことよりも重要な歴史的出来事が生じたのですからね。

  • < 1989年2月1日東亜日報1面 >

その日、平壌(ピョンヤン)を訪問した現代グループの故鄭周永(チョン・ジュヨン)名誉会長は、北朝鮮と金剛山を共同開発することに合意して議定書を交換しました。そのため新聞社の編集者たちは、どのような記事をトップ記事にすべきかと悩んだのです。上記で紹介した新聞のように、多くの新聞は、2つの記事を並べる2トップ体制で編集しました。

6.25戦争以来、「赤(共産主義者)は嫌い」、「打ち砕こう共産党」と学んできたが、今は修好を結んで観光をしに北朝鮮の地に入ることができようになったのです。混乱しながらも嬉しく、統一が近づいてきたというときめきと一緒に、「本当に」という疑問も一緒に感じたでしょう。新聞の見出しは、まもなく平壌行きのバスが通うようなニュアンスを漂わせていたりするでしょう。

若い学生らは、民族統一の礎石になると言い、7月1日に平壌で開かれた世界青年学生祝典に出席するという熱意を燃やしました。学生祝典は、北朝鮮が88年ソウル五輪に対抗するために誘致した行事だが、歩いてでも平壌に行くと、出征式を持った学生らは警察署の留置場が終着地になってしまいました。東欧圏の国と修好を結び、北朝鮮が故郷である財閥会長が平壌に行って来ると言って、学生らにも自由な北朝鮮往来を許可するほどではなかったのでしょう。

祝典出征式が行われる前に、すでに政府の許可を受けずに北朝鮮を訪問していた平和民主党のソ・ギョンウォン議員が、国家保安法違反の疑いで拘束された状態でした。

学生らは、平壌祝典に参加する代表として韓国外国語大学の林秀卿(イム・スギョン)さんを代表に選びました。彼女は日本に観光に行くふりをして出国し、ドイツを経て祝賀開幕の前日に平壌に入りました。北朝鮮の人民たちから熱烈な歓迎を受けたのですが、板門店を経て南に進みやいなやヘリコプターで圧送され、安全企画部に連れて行かれました。

せっかちな人々の行動と当局の監視にもかかわらず、統一についての議論は、生い茂りました。民主体制国家での統一、連邦制、二元政府などと、さまざまな統一方案が競争的に提示されました。それから4半世紀が過ぎた今、韓半島(朝鮮半島)は暗雲に包まれていますね。

1989年に起きた事件、事故、新たに変わった制度を列挙しろと言われれば、きりがないです。しかし、この1つは触れておかなければなりませんね。1月末、政府が発表した韓国の社会指標です。製造業の労働者たちは、世界で最も長い1日9時間を働き、会社員は週平均52時間、強度の高い勤務で時間に追われますが、韓国人の60%以上が「私は中産層」だと認識しているということが政府発表の骨子でした。

まだ所得が全体的に高い方でなく、経済的な側面の満足度は低かったけど、親、子ども、配偶者との関係など、全般的な家庭生活の満足度は高いほうだと分かりました。つまり1989年を生きる韓国人は、希望に膨らんでいたのです。

自動車を保有する人も増えました。1987年から高騰し始めた住宅価格は依然として強い勢いを見せていたでしょう。住宅価格の鎮めるために、政府はソウル郊外に5つの衛星都市を作ると発表し、江南を中心にアパート価格がやや低下したが、盆唐(プンダン)一山(イルサン)などの5つの新都市は、不動産価値を再引き上げる力として作用している。

  • < 韓国と中国が修好を結ぶ前、卓球のアン・ジェヒョン選手とチャオ・ズミン選手は漢字筆談で愛をささやいた >

そして、この年、甘いロマンスも実現しました。韓国と中国の卓球スターであるアン・ジェヒョン(安宰亨)選手とチャオ・ズミン(焦志敏)選手が5年間の苦労のピンポン愛の末に結婚という形でゴールインしたのです。2人は1984年10月、パキスタン・イスラマバードで初めて出会いました。すらりとしたスタイルに髪を後ろにかきあげるチャオ・ズミン選手の姿に、アン・ジェヒョン選手が一目惚れてしてしまいました。

アン・ジェヒョン選手は競技場で彼女に会うたびに、髪をかきあげる真似をしました。言葉が通じないためジェスチャーで代わりにしたのでしょう。チャオ・ズミン選手もアン・ジェヒョン選手が嫌いではなかったようです。自分の癖を真似する年下の韓国選手に、顔を後ろに振り返らせて熱い視線を送ったりしたのです。

ソウルに帰ってきて、アン・ジェヒョン選手は中国から来た同胞からチャオ・ズミン選手の手紙の伝達を受けました。その後、手紙が行き来し、1986年のソウルアジア大会で2人は再会しました。

ゲームが終わった後、韓国卓球協会長の招待で韓中の卓球選手たちが集まった席でアン・ジェヒョン選手とチャオ・ズミン選手は、1つのテーブルに引っ付いて座り、愛のプッシュを交わし、集まりが終わった後、ユニフォームを交換して着たといいます。

2人の愛の結実として産まれたアン・ビョンフンが、韓国ゴルフ代表選手として、今、ブラジルにいます。ベルリンの壁と共産圏の国との国交正常化の話をしてみると、芸能人についてのニュースを聞かせてあげられなかったですね。
  • Lim, Chul
  • 入力 2016-08-18 00:00:00

Copyright O2CNI All rights reserved.

目錄


      • facebook icon
      • twetter icon
      • RSSFeed icon
      • もっと! コリア